第51話 不穏な気配

「今日はマジで暑いな……」

 俺は雑巾を持った手を止めて、作務衣の袖で額の汗をぬぐった。

 紺色の生地がぬれて色濃くなり、肌にまとわりつく。

 森の梢の間から差す木漏れ日は、春ごろのやわらかな光から一転して、目を刺すような強烈な光になっていた。

 

 俺は夏祭りの準備として、お社の床や壁、桟などの念入りな拭き掃除をしていた。

 年に一度のお祭りの際には、普段は不在の弁天様がお越しになることもあるし、きちんとお清めして、神様をお祀りしないといけないからな。

 山と水の恵みに感謝し、町の平穏と繁栄を願うお祭り。

 子どもたちにとっては、年に一度の屋台を巡る楽しみ。

 お祭りにかこつけて、町の大人たちも、あちこちで宴会をすると聞いている。いつの時代にも、お祭りは一大イベントなのだ。

 そのイベントの前なのに、俺はいくつかの問題に頭を悩ませていた。


 ひとつは、手水舎の水のこと。

 そしてもうひとつは、お白様のこと。


 ここ数日で、水の出が一層悪くなってきたので、水道局に電話したところ、「神社に上水道は通っていませんよ」と言われて、俺は「へ?」と間抜けな声を出してしまった。

「え、でもじゃあ、水はどこから来てるんですか?」

「おそらく、井戸水を上げているか、川の水を引いているのではないでしょうか」

「な、なるほど」

 そういえば、そんな話を親父から聞いたことがあった気がする。

 だけど、子どもの頃の俺は水道のことなどあまりよく分かっていなかったから、水がどこから来ているのかなど、考えたことがなかった。

 俺は急いで、沖縄にいる親父に電話をかけた。

 俺の説明を聞いた親父は、呆れたように言った。

「手水舎の水は、井戸水だ。そんなことも知らなかったのか?」

「ええ、そういえば聞いた気がするけど、忘れてましたよ」

「手水舎の裏に、ポンプがあっただろう」

「もしかして、水の元栓のとこにある円筒形のカバー?」

「そうだ」

「じゃあ、手水舎の水が少ないのは、井戸水が枯れてきているってこと?」

「ポンプが壊れているのでなければ、そうかもしれないな」

「そんな……」

 夏祭りでは多くの人が神社を訪れる。水の祭りのときに水が枯れるなど、縁起でもないぞ。

 もしかして、お白様の不調も、そのことと関係しているのかもしれないな……。

 だが、それがわかったとして、どうすればよいのか、俺には見当もつかなかった。


「やれやれ、休憩するか……」

 本殿をひと通り清め終わったところで、俺はひと休みしようと、藤棚の下のベンチに腰かけて、水筒に入れた冷たい麦茶を飲む。

「ああ、生き返る……」

 水筒に入れた氷がからんと涼しげな音を立て、俺はほうっと息を吐き出した。


 そのとき、ふいに背後の藪がガサガサと鳴って、俺はお犬様が散歩から戻って来たのかと振り返った。

 すると、木立の奥で金色の光がちらりと光ったかと思うと、眼光鋭い大きな犬がぬっと姿を現したから、俺は驚いて心臓が止まりそうになった。

「お、お犬様!?」

 ぴんと立った耳に鋭い鼻先、すらりと長い四肢、ふさふさの尾。どこからどう見ても、立派な狼だ。あのふわふわでかわいい子犬の面影はない。

 琥珀のような瞳の色だけがそのままで、お犬様なのだとわかる。

 長い距離を走ってきたのか、舌を垂らして荒い呼吸を繰り返してる。

 その様子を見て、俺は大急ぎで手水舎から柄杓に水を汲んできてお犬様の前に差し出すと、お犬様はすごい勢いで水を飲み干した。


『ふう……』

 お犬様はまだ荒い呼吸をしながらも、長い舌で口の周りを舐めて、ひと心地ついたように吐息をついた。

「お犬様、どうされたのですか?」

『なに、ちょっと遠出をしたものでな。子犬姿では足が遅いので、久しぶりにこの姿をとったのだ』

 しゃべり方まで、大人のような口調だ。

「な、なるほど……いつものふわふわ子犬は、仮のお姿だったのですね……」

 いや、あの子犬姿とふるまいは、参拝者にかわいがられるために、わざとやっているらしいと、気づいてはいたけどさ。

「どちらまで行かれたのですか?」

『奥山の向こう、神域の境界まで』

「それは随分と遠くまで」

 俺も、正確にはこの神域がどこまで広がっているのか、把握はしていない。神社と町で管理している保全林以外にも、この山は隣の町まで長く連なっているからな。

「でも、どうしてそんな場所まで?」

 俺がたずねると、お犬様は鋭い目を俺に向け、静かな声で言った。

『山の根がゆるんでいる』

「え?」

 俺はその言葉の真意がわからず、眉根を寄せた。

『それに、竹や大楠が言うには、水脈も動いている』

「水脈が?」

 その言葉に、俺ははっとしてお犬様の方へ体を乗り出した。

「もしかして、井戸水が減っているのも、それと関係しているのですか?」

『おそらく』

「その原因はわかりますか?」

 俺がたずねると、お犬様はすっと目を細め、厳しい口調で言った。


『奥山の向こうの森が、消えているのだ』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る