第59話 月明かりの狼
静かな夜の神社で、月明かりに照らされて、灰色の狼がたたずんでいる。
「……お犬様?」
俺が呼びかけると、狼がゆっくりと振り向いた。
双眸が金色に光る。底知れない深い光だ。その狼は、まるで俺の知らない存在であるかのようで、俺はごくりと唾を飲み込んだ。
今にも飲み込まれそうな恐怖を感じる。
狼が足音もなくこちらに近づいてきて、俺は本能的に一歩後ずさった。
お犬様の神々しく恐ろしげな姿を前にして、俺はすっかり忘れていたことを思い出す。
自然に宿る神々は、人智を超えたものであるということ。
お犬様やお白様とは、すっかり慣れ親しんだつもりでいたが、それは彼らの穏やかな姿でしかないということ。お白様が消えたことで「俺がなんとかしないと」と焦っていたが、それは浅はかな思いだったのでは、という気すらした。
ふと、灰色の狼の全身が淡い光に包まれ、気がつくとそこには、いつもの小さな子犬であるお犬様がいた。威圧感が消え、お犬様はてけてけと、親しげな足取りで俺のところまでやって来る。
俺は知らぬ間に止めていた息を吐きだして、しゃがみこむとお犬様に視線を合わせた。先ほどの瞬間が夢だったかのように、お犬様はつぶらな瞳で俺を見上げる。
ためらいながら、俺はその毛並みに触れた。やわらかい毛並みは、いつも通りモフモフで、俺に安心感を与える。
『どうした? 震えておるのか?』
俺にもふられながら、お犬様がからかうように言った。
「お犬様が怖い顔するからですよ」
俺もできるだけ冗談めかしてそう言うと、お犬様はふんと鼻を鳴らした。
『恐れるがよい』
冗談なのか本気なのかわからない言い方だ。
「それで、お犬様。何かわかりましたか?」
俺は一番聞きたかったことをたずねた。
お犬様は静かな声で言った。
『泉が、干上がっていた』
「え!?」
予期していたとはいえ、俺は衝撃を受けた。
昔、水の神が祀られていたという源の泉だ。お白様が消えてしまったのは、やはり泉に異変があったからなのか。
「それはやっぱり、森の木が伐られているから?」
お犬様は目を細めて、森の方へ視線をやった。
『それはわからぬ』
「そんな……」
『水の流れが変わってしまったのは、間違いないであろう』
「もしかして、他の場所を探せば、水はあるんでしょうか」
先ほどユリの言葉から類推したことを、お犬様にぶつける。
『かもしれぬ』
お犬様の返答は曖昧だった。何かを知っていそうなのに、言ってくれないのがもどかしい。
「お白様がどこにいるのか、山の神でも、わからないということですか」
俺は思わずそう言ってしまった。
お犬様の目が、淡く光った。
俺はぎくりとして、お犬様の毛並みから手を離す。
『われわれが存在するのは、そこに神を見る人間がいるからだ』
お犬様は厳かにそう言った。
『人が忘れれば、われらは消える』
俺は言葉を失って口をつぐんだ。
お犬様が言ったことは、とても大事なことであるとわかっていた。
そうだ。山の神が長らく姿を消していたのも、人が山への信仰を忘れてきていたからだ。
それを俺たちが見出し、神社にお招きして、お祀りする末社も建てたことで、人々が再び山の神を意識しはじめ、お犬様は今のように、姿を現すようになった。
「だけど、俺はお白様のことを、忘れてはいません!」
なのに、なぜ消えてしまったのか。
やっぱり、人の都合で山を開発し、水脈にも影響が出ているからなのか。
お犬様は俺の言葉に対して答えず、ただ一言だけを告げた。
『白のことは、おぬしら人間が見つけることだ』
そして、お犬様は夜の森の中へ消えていった。
「お犬様……」
ここにきて突き放されたことが、俺はショックだった。
なんとなく、お犬様もお白様も、いつでも自分の味方であるような気がしていたから。
「もしかして、山の神もお怒りなのか……」
そうかもしれない。
八百万の神々は、人の都合のいいように振る舞ったりはしない。
人がないがしろにすれば、その分しっぺ返しを受ける。
「とにかく、お白様を見つけよう」
お犬様に言われた通り、俺が今すべきことは、それだろう。
「神を見る人間、か……」
本当は、親父や妹に手伝ってもらえればいいのだろうが、沖縄から来てもらうとなると、時間がかかってしまう。
だけど、俺は今、俺以外にも「見える」人がいることを知っている。
それも、この地域に住んでいて、山や水のことも、他人事ではない人たち。
俺は急ぎ足で山をくだって家に戻ると、俺の知っている人たちに、助けを求めることにした。
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