第3話 手水舎と苔
「はあ、はあ……」
俺は息を切らして立ち止まった。額の汗を手の甲でぬぐい、行く先を見上げる。お社へ向かう階段は途中で森の陰に隠れ、どこまで続くのかも分からない。
この階段、こんなに長かったっけ? 運動不足の体にはかなりきつい。ついでに、袴が重くて暑くて邪魔だ。平安時代の貴族は、よくもこんな服で馬に乗ったりしていたものだな……。
空気がひんやりと涼しいことだけが救いだった。
俺は長く息を吐いて階段に座り込むと、周囲を見回した。視界が開けていたら、きっと田舎ののどかな景色が見渡せるのだろうけれど、あいにく木が覆い茂って何も見えない。途中、幹がひと抱え以上ある大木がぬうっとそびえていて、俺はまた何か出てくるのではと警戒したが、しんと静かでそれがかえって不気味だった。森の中に鳥の声が響き、小さな獣でもいるのか、ときどき枝が折れるようなパキッという音が聞こえた。
参道の脇にはところどころ桜の木があって、薄暗い林の中に彩りを添えている。あと一週間もすれば満開だろう。
ふと、すぐ横に根元で折れた鳥居の残骸が転がっているのに気がついた。
「あれ、昔から折れてたっけ……」
もしかしたら、俺が地元を離れている間に、台風かなにかで崩れたのかもしれない。赤字経営の零細神社だから、修理するお金もなかったのだろう。よくよく見れば、階段には落ち葉や枝が降り積もって、道端は雑草に覆われている。
体調が悪くて、手入れも行き届かない、と言っていた親父の言葉が思い起こされる。
「そうだよな、敷地だけは無駄に広いから、掃除も大変だよな……」
親父が毎朝早く起きて、郵便局の仕事へ行く前に、階段を一段一段、ほうきで掃いていたことを思い出す。俺はその手伝いが嫌で、中学に上がると部活動を言い訳にして、家の仕事から逃げていたものだ。
しばらく休憩した後、俺はまた階段をのぼりだす。いつ何が出てくるかわからないので、警戒しつつ、息を切らしつつ、一段一段のぼっていく。
やがて、急に森の様子が変わって、まっすぐの幹の針葉樹が並んだエリアに出る。一の鳥居のところに生えていた杉とも似ているが、空気が違う。さわやかな檜の香りが鼻をくすぐった。
檜の林の向こうには、最後の鳥居とお社が見え隠れしていた。
俺は息を整えると、残りの数段をゆっくりとのぼり、褪せた赤色の鳥居を一礼してくぐった。参道の脇に設けられた小さな手水舎(ちょうずや)で手を清めようとして、水がないことに気がつく。
前は蛇の口から水が流れ落ちて、小さな石の盆に水がたまっていたのだが、今は空っぽで、落ち葉や虫の死骸なんかが底にたまっている。水盆のふちについた苔も茶色く枯れている。
「しばらく人がいないから、水を止めてしまったのか……」
俺は手で石盆の底にたまったごみを取り除くと、水の元栓を探した。水を開けると、吐水口である蛇がごぼごぼっと苦しそうに空気を吐き出した後、水が流れ出した。最初は茶色い水が出てきたが、やがて澄んだ水に変わる。
ちゃんと水が出たことに、俺はほっとした。
「タワシ持ってくりゃよかった」
掃除道具を忘れたので、俺は手で水盆を洗い、汚れた水を捨てて、というのを何度か繰り返した。ついでに、水盆の縁の苔にも水をかけてやる。本当は苔もきれいにとってしまった方がいいのかもしれないが、この森の中の神社には、苔がお似合いだと思ったのだ。
掃除が終わると、改めて柄杓で手と目と口をすすいで清めた。
水盆の上に渡した竹の棒に柄杓を立てかけたとき、俺はふと、そこに小さい人がいるのに気がついた。
頭に緑色のベレー帽をかぶった男の子のように見える。小さい人は、竹の棒をてくてくと歩いて渡ると、蛇の口から流れ出る水で手を洗い、ベレー帽を外して頭から水をかぶり、ついでにベレー帽も洗って、びしょびしょに濡れたまま頭にかぶる。さらに、両手で水をすくうと口元にもっていき、いかにもおいしそうに、水をごくごくと飲んだ。全身水びたしだが、なんだか満足そうだ。
「これは誰だろう」
あまり見覚えがない姿だが、こいつもたぶん、何かに宿る精なのだろう。小さい人は俺に気がつくと、ベレー帽をはずして、ぺこりと頭を下げた。さっきの意地悪な杉美人に比べると、随分と礼儀正しい。俺もつられて会釈した。
小さい人はほとんど聞き取れないくらい細い声で言った。
『水をありがとう』
「あ、いえ、どうも」
『のどがからからで、死にそうだったんだ』
その言葉で、この小さい人の正体がわかる。
なるほど、こいつはさっき俺が水をかけた苔か。確かに、緑色のベレー帽がよく見ると苔っぽい。掃除してしまわなくてよかった。
俺は地面に膝をついて、小さい人と目を合わせた。
「俺、あ、いや私は、今日からここの神主をやらせていただくことになりました」
できるだけ丁寧に挨拶をする。小さいからって雑に扱うと、何をされるかわからない。
苔の精はにっこりと笑った。
『こちらこそ、よろしくね』
よかったよかった。こいつは見た目通り、穏やかな性格みたいだ。
小さい人は竹の棒に腰かけて、足を水面にむかってぶらぶらさせながら、思い出したように言った。
『うちのお白様が、待っているよ』
その言葉に、俺はぴくりと背筋を伸ばして、拝殿の方へ目を向ける。
お白様。それは俺も小さいころからよく知っている、ここの神様だ。正式な名前は他にあるのだが、地元の人は「お白様」という愛称で呼びならわしている。
「さっそくご祭神の登場か……」
俺は袴の乱れを整えると、気を引き締めて、お社の方へ足を向けた。
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