第54話 消えたお白様
俺たちが神社に戻ってきたときは午後も遅く、傾きはじめた太陽はオレンジ色を帯びて、辺りをきつく照らしていた。
『お帰りなさいませ』
鳥居の横に立つきりっとした女性が、恭しくお辞儀をして俺たちを迎えた。
背の高い杉の梢がざわざわと鳴って、歓迎の意を示す。俺に対するぞんざいな扱いとは雲泥の差だ。そのくらい、この山の生き物たちにとって、山の神が「特別」なのだと思い知らされる。
『うむ』
お犬様はてくてくと歩いて鳥居をくぐると、軽快な足取りで階段を登っていく。
その後ろを、俺は遅れまいと急いでついていく。
最後の鳥居をくぐって森に囲まれた神社にたどり着いたとき、俺は違和感を感じて足を止めた。
木漏れ日がふっと陰って、辺りが薄暗くなる。見上げると、灰色の雲が空を覆い、太陽が隠されていた。
お犬様が手水舎の水盆の縁に飛び上がって、水を飲んでいる。人感センサーをとりつけた蛇の口は、体温のあるお犬様には反応して水が出るはずなのだが、今はしんとしている。
俺は急いで手水舎に近づいて、蛇の口の前で手を動かしたが、やはり水が出ない。
『干からびちゃう』
苔の精が、柄杓を立てかける竹の棒の上を行ったり来たりして、心配そうだ。
裏の揚水ポンプのところへ向かうと、作動している音はした。ポンプやセンサーが壊れているのではなく、水が上がっていないのだ。
「さらに水が枯れてきているのか……」
お犬様が耳をせわしなくうごかして、深井戸の奥の音を聞いていたが、やがてつぶやいた。
『やはり、水の流れが変わってしまっているのだ』
「山が開発されているからか……」
水脈は地面の奥深くで複雑につながっているのだろうから、影響が出ているのかもしれない。
「水のことなら、お白様の見解も聞かなきゃな」
俺は急いで拝殿から本殿、藤棚や桜の木の上まであちこち探したが、白蛇の姿を見つけることはできなかった。
「あれ、お白様?」
どこか散歩にでも出かけているのだろうか。
こんな時に、まったく自由なおひとだ。
仕方ないので、俺は正式にご顕現を願うことにした。袴姿ではなく作務衣なのが正式ではないが、緊急だから許してもらおう。
本殿の裏の榊の木から枝を拝借すると、大幣がわりにと手にかかげて、本殿に向き合う。
「掛けまくも畏き 白水の大前――」
俺は目を閉じ集中して、声に力をこめた。
「どうかご顕現くださいますよう、恐み恐み(かしこみかしこみ)お願いもうす」
榊の枝を左右に振って、深々と一礼する。
いつもならば、こうやってお願い申し上げると、どこからか面倒くさそうなお白様の声が聞こえて、渋々でも姿を現すのに。
今日に限って、しばらく待ってもその気配がない。
境内には静寂が満ちていて、木の葉が森に落ちる音も聞こえそうだった。
俺は頭を垂れた姿勢のまま、じわじわと焦りを感じはじめていた。
嫌な汗が背中にじっとりと浮かぶのは、気温の高さだけではないだろう。
「お白様……?」
俺は顔を上げて辺りを確かめたが、そこに見慣れた白蛇の姿はなかった。
「こんなときに、どこ行ったんだよ!」
思わず声を荒げたが、やはり返答はない。
俺はもう一度、拝殿から本殿にかけてを見て回った。それこそ、床下から梁の上、果ては脚立にのぼって屋根の上まで探したが、どこにもお白様はいなかった。
そのときになって初めて、先ほど神社に戻ってきたときの違和感を思い出した。
いつもは境内に、水の神であるお白様の清らかな力が満ちているのに、今は空気が妙にがさついているのだ。
山の神のご加護はあるから、神域としての神聖さは保たれているが、そのバランスが崩れている。
――御祭神がいなくなった。
神主として、にわかには受け入れがたい事実をつきつけられ、俺はしばらくの間、立ち尽くしたまま動けなかった。
いつの間にか、かたわらにお犬様が立っていた。
そのふわふわの毛並みが手に触れて、俺は我に返った。
「お犬様、どうしたらいいんでしょうか? 夏祭りも近いのに……」
夏祭りは、水の祭りだ。なのに、水の神が不在だなんて、不吉にもほどがある。
『源の泉に、異変があるのかもしれん』
お犬様は静かな声で言った。
「あの山奥の泉に?」
白水山の奥深くに、元々、水の神と山の神が祀られていた泉があって、今の場所に神社が移される前は、小さなお社がそこにあったという。眠っている山の神を見つけたのも、やはりその泉のほとりだった。
「そうか、泉は奥山の方角だから、山の開発の影響を、強く受けているのかもしれない!」
もしかして、源の泉が枯れてしまったら……考えると恐ろしくなって、俺はいても立ってもいられなくなった。
「見に行かないと!」
俺はぱっと立ち上がると、神社の裏から山に入っていく道の方へ駆けだした。
だが、その前に灰色の狼が立ちふさがって、俺は急停止させられる。
「お犬様、なんで邪魔するんですか?」
『ぬしは弱い人間だ。日も暮れる。急いても状況は変わらん』
「だけど……」
『わたしが見に行く。すぐに戻る』
お犬様は勇ましい狼姿で、風のように森の間へ駆け去っていった。
俺はその後を追おうとしたが、すんでのことで思いとどまった。
今はすでに夕方だ。山に慣れていない俺が、夜の山をお犬様と同じペースで走るなんて、できやしないのは……悔しいが認めざるを得ない。
「俺は、俺にできることを、するしかないか」
気持ちを切り替えようと、一度強く頭を振って、俺は自分に何ができるかを考えた。
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