第2話「イチコ」

 悪霊イチコ。生前の名前は、恐山おそれやま一子いちこ

 彼女はとある高貴な家の令嬢であった。


 幼い頃からすでに許嫁がおり、彼女はそこに嫁ぎ、恐山家の更なる発展を支える為、日々研鑽を求められた。


 イチコは家族の為もあったが、何より政略結婚とはいえ、その相手のことも少なからず慕っていた為、辛く苦しい日々も耐え抜き、キレイな肌に艶のある黒髪、無駄な脂肪もないしなやかな肢体を維持した。また外見だけでなく、礼儀作法、博識な知識に、お茶や花、はては料理に至るまで完璧にこなした。

 ただ、容姿にいえば、一点、ただ一点だけ人より劣っている部分があったが、胸という生まれ持った資質は代えがたく、努力はしたが、実ることはなかった。


 しかし、悲劇は起きた。

 それはイチコが婚姻する16の歳。


 婚約者の男は一人の女性を引きつれていた。

 突然に相手から、結婚はするが、真に愛しているのはこちらの女性だと紹介されたのだった。


 もちろんイチコは激怒した。

 髪を振り乱し、あらん限りの罵倒の言葉を述べた。

 そして手元にあったオブジェを掴むと、女に向かって殴り掛かった。


「このデブ女がっ!! 胸だけデカイあんたなんかに、あんたなんかにっ! アタシの努力も、彼も、恐山家も奪わさせるものかっ!!」


 しかし、イチコの手が女性に届くことはなく、婚約者に止められ、反対に突き飛ばされる。


「あっ!」


 その拍子に引き出し収納チェストへ頭部を打ち付け、イチコの意識は途絶えた。


「死、死んだのか……?」


 婚約者は恐る恐るイチコを確認すると、ツッーと頭部から流れる血が次第に床を濡らしていく。


「や、やばい……、隠さなくては。お前はこの血を消しておいてくれ、俺は死体を隠してくる」


 男はイチコの体を、屋敷の裏へ運ぶと今は使われていない枯れ井戸の蓋を開ける。

 井戸は底が見えない程深く、どこか薄気味悪さを覚える。


「ここなら……」


 枯れ井戸へとイチコは投げ込まれた。そこには幾ばくかの水が残っていたようで、ボチャンと水没した音だけが返ってきた。


「これで、見つかる心配はないだろう」


 再びゆっくりと蓋が閉められ、枯れ井戸の底は闇に包まれた。



「う、うう、こ、ここは?」


 頭を抱えながら、井戸の底でイチコは目を覚ました。

 頭部を激しく打ち付け、意識を失い出血もあったものの、命に別状はなかった。

 しかし、婚約者の男は頭部からの出血に驚き、正しい判断を下すことができず、イチコは死んだものだと勘違いしていたのだった。


「ちょっと、どういうこと? ここ、井戸なの?」


 石造りの壁が周囲を丸く囲み、足元には水。

 光が届かず、盲目の世界でも井戸の中と判断することは容易だった。


「誰か助けてっ!! お願いっ!!」


 必死の叫びも届くことはなく、いたずらに時間だけが過ぎていった。


「こんな。こんなところで死ねないわ! 絶対にっ!!」


 イチコは助けを呼ぶことを諦めると、今度は自力で登ろうと石造りの壁に手を掛ける。

 いままで、令嬢として育てられてきたイチコにとって、壁を登るなど出来るはずもなく、幾度となく繰り返された挑戦によって、銘仙着物はボロボロになり、爪は剥がれ、手も足も傷だらけになっていった。


 どれだけの日が過ぎたか確かめるすべもなく、井戸の水を啜り、なんとか生き永らえていたイチコだったが、自慢の黒髪はボサボサになり、頬はこけ、体は貧層なほど痩せていた。


「なんで、アタシがこんな目に……。なんで、なんで、なんで……」


 意識も朦朧としながら、自問自答を繰り返す。

 

「全部、あの男が悪い? あの男って誰だっけ? 婚約者? 女と一緒の男? もう、疲れたわ……。誰でもいいわ。あの男。皆、皆、死ねばいい。みんな、しねば――」


 バシャっと水しぶきの音だけが井戸の中に木霊した。



 それから、婚約者の男は謎の自殺をし、愛人の女は、飾りだったはずの火縄銃が暴発し、運悪くその凶弾に倒れた。


 その後もその屋敷に住むものは不可解な死を迎えた。

 周辺の住人たちは、失踪した令嬢イチコが悪霊として蘇り呪っているのだと噂し、いつしか、悪霊令嬢イチコはこの町では知らぬものはいない話になっていた。


 その後、その屋敷では家主が変わろうとも、建物が変わろうとも、井戸が取り壊され見つかった人骨が供養されようとも不審死は相次いだ。


 次第に、不審死の範囲は広がり、隣家だけでなく周辺の家でも被害が出、100年後の現在では、その地区にしばらく足を踏み入れただけでも犠牲になっていた。


 今日こんにち、悪霊令嬢イチコは除霊され、異世界へと追放されたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る