思ひ出乞ひわずらい【肆】

      *


 奇妙丸の部屋の真下まで辿りついた時、於泉も勝九郎も、髪や肩に蜘蛛の巣や埃が纏わり付いていた。

 固まる於泉の代わりに、勝九郎が払ってくれた。雑な手付きだったので、総髪そうがみにまとめていた髪はところどころ解れ、頬のところでくくっていた物忌も落ちそうになっている。


「兄上、髪直してー」


 いつもであれば、「甘えるな」と叩かれるところである。

 しかし、今日の勝九郎は文句を言うこともなく、髪を手櫛で梳いてくれた。

 勝九郎の顔が強張っている理由が於泉には分からなかった。


「天下布武」


 於泉の髪を直し終えると、勝九郎が口にした。


「天下布武、とは……何のためにあるのだろうな」


 何のことかと首を傾げると、勝九郎が頭を振った。


「いや、いい。……あまり騒ぐなよ? 人が来る」


 於泉は草履を脱ぎ散らかし、奇妙丸の部屋の戸をそっと開けた。

 まだ寝ているだろうかと懸念したが、奇妙丸は起きていた。文机に肘を預け、壁の方を向いていた。


「若!」


 於泉が小声で叫ぶと、奇妙丸が驚いたようにこちらを向いた。


「お、せ、ん……?」


 於泉は奇妙丸に向かって真っすぐに抱き着いた。

 今までなら、その背にすぐ腕が回るはず。


 だった。


 しかし、奇妙丸の腕が返されることはなかった。


「……汚れる」


 と、奇妙丸は一言零したのみである。


 縁の下を潜り抜け、蜘蛛の巣や埃に塗れていた。一応勝九郎に払ってもらったのだが、手を洗っていない以上、まだ汚れていたのだろうか。


「違う、お前じゃない。……儂が、汚い」


「若が? ……どこが?」


 奇妙丸の掌は相変わらず滑らかで絹のよう。

 目も珊瑚のような色をしているし、髪も無造作に首元で結っただけなのに、息を呑むほど美しい。


 この美童のどこが汚いというのか、於泉には本気で分からなかった。


「若は、汚くなどない。相変わらず綺麗だよ。やっと会えた。泉はとーっても嬉しい!」


 奇妙丸は、いつもと違うところがある。体の至るところに、痣や切り傷があることだった。


 頬は青く腫れ、寝巻の合わせ目からは包帯が覗き見えている。唇も切れ、目の下の隈もひどかった。両の手首には包帯がきつく巻かれ、ふわりと薬効の臭いもした。


「怪我、したの? 大丈夫?」


「……落馬、して」奇妙丸は引き攣ったような笑みを浮かべた。「帰り道で、儂が一人で馬から落ちた」


(嘘だ)


 奇妙丸の目は、真実を語っていない。何かを隠している。


 そもそも於泉は、「怪我をしたのか」と問うたのだ。「どのような経緯で怪我をするに至ったのか」を問うたわけではない。


 しかし、重ねて問いを掛けることなどできなかった。奇妙丸の目が、「これ以上聞かないでほしいと」言っていたからだ。

 そして於泉の中にもまた、これ以上の問いを掛けてはならない、という思いが沸き起こったのだった。


「それより、於泉は一人で来てくれたのか? まだ、夜も明け切っておらぬというのに。危ないではないか」


 いつもの声に戻った。於泉は安堵しつつ、一人で来たわけではないことを告げた。


「兄上と一緒に参ったの」


 後ろで、床が軋む音がする。勝九郎が来たのだろう――於泉が振り返った時だった。奇妙丸の吐息が割れた。



「うわあああああぁああああああ!!!!」



 一瞬、何が起きたのか分からなかった。於泉の真横を硯が飛んだ。硯は入口で突っ立っていた勝九郎の頬に当たり、落ちた。


「兄上!」


 勝九郎の、蟀谷が割れる。

 血が流れるのを見た於泉は奇妙丸を振り返り掛けたが、口を開くよりも先に、勝九郎に制止された。

 しかし、勝九郎に止められずとも、於泉は奇妙丸を咎めることなどできなかった。


「来るな、来るな、あっちへ行け!」


「若!」


 奇妙丸が傍にあった筆や墨に手をかける。手当たり次第目に映ったものを、勝九郎に向かって投げようとした。


「やめて! 兄上が怪我をしてしまう!」


 於泉は咄嗟に奇妙丸にしがみ付いた。最初は於泉を突き放したものの、幾度かしがみ付けばようやく奇妙丸は大人しくなった。


「お願い……! 若……兄上を、いじめないで……!」


「いじめ、る……?」


 奇妙丸は怯えたように自分の掌を見つめた。


「俺も……あの男と……同じ……」


力が抜けたかのように、奇妙丸は崩れ落ちた。奇妙丸の悲痛な泣き声が響き渡る。


 まるで奇妙丸が遠くに行ってしまった気がした。

 京よりも、ひょっとすると南蛮よりも遠い場所へ。


 そのことが怖くて、於泉は奇妙丸を抱き締めた。


「於泉は、ここにいる。若の傍に、いるから……だから、お願い……行かないで……」


 奇妙丸のすすり泣く声が落ち着き始める。於泉は必死で奇妙丸の頭を胸に抱き続けた。


「……於泉……お前は俺を裏切らぬか?」


「裏切るわけ、ない」於泉は両の瞳から涙を流した。「絶対、若と一緒にいるから。信じて……」


      *


「この……ッ馬鹿どもが!!!」


 恒興の怒号に、勝九郎と於泉は首を竦めた。


 恒興は、滅多に家で声を荒げない。特に於泉に対しては。

 父の怒声を浴びせられるのは、初めてのことかもしれなかった。


「お前はしばらくの間若のお部屋に行くな! 絶対に、だ! 若の御前に髪一筋とて現れることは赦さん!」


「……厭」


 於泉は頭を振った。


「於泉は、行く。若の部屋」


 奇妙丸と約束した。傍にいる、と。だから傍にいなければならない。約束は守り切れねば何の意味もない。


「於泉はいい。勝九郎だけが、ならぬ」


「……父上」


 勝九郎が怯えたように口を開く。その拳は膝の上で硬く握られていた。本気で怒っている時だけに見せる癖だった。


「父上達は、若に何をされた? 何故、若をあのようにした!?」


 勝九郎の秀麗な顔が怒りで歪む。どこか泣きそうで、父親を軽蔑しているような色も含んでいる。


 しかし、奇妙丸の怪我に恒興が関わっているということだけで、於泉は愕然とせずにはいられなかった。


「――織田家のためだ」


 恒興は一言そう言い置いた。勝九郎は溜まりかねたように、父に噛み付いた。


 だが、これ以上は於泉も耐えられなかった。どういう経緯によるかは知らない。

 しかし、奇妙丸の怪我が恒興の言う「天下」のためによるのならば――赦し難かった。


「そんなものの、ために……くだらない……!」


 恒興が目を見開いた。於泉はたまらず、父親をきつく睨み付ける。


「天下布武とやらのためなら、若がどんな目に遭ってもいいの? 織田家のため? 大義名分のためなら、若が怪我をしても、苦しい思いをしてもいいの? 若の犠牲の上にしか成り立たないなら、泉は泰平の世なんていらない!!」


「於泉!」


 恒興が目を怒らせ、掌を振り下ろした。爆ぜる音がしたが、その掌が於泉の頬を張ることはなかった。

 恒興の掌は於泉の頬ではなく、勝九郎の頬を打っていた。


「……無礼を、申しました。なれど――父上達が若にしたことを、我らは生涯、忘れることはありますまい。……絶対に」


 勝九郎は於泉の腕を掴むと、恒興の部屋を辞した。恒興は、追いかけて来ることはなかった。


 恒興から離れると、於泉は勝九郎に泣きついた。


「ごめんなさい、兄上。痛かったでしょ?」


「大したことはない。剣の稽古では、もっとしばかれるぞ。……お前は大丈夫だな?」


 勝九郎の掌が頭に乗った。勝九郎の頬は唇の端が切れている。


 於泉が頷くと、勝九郎は泣きそうな顔をした。泣いていいのに、勝九郎は絶対に涙1つ見せようとしなかった。


「若を、頼む。俺はもう、若のところには行けないから」


「……何故?」


「何でもだ。若の怪我が癒えるまで、お前が支えるのだ。……羨ましいよ。お前が、女子で」


 その時は、奇妙丸の身に起きたことも、勝九郎の言葉の真意も、理解することができなかった。


 於泉がこのことの真意を知るのは、もう少し大人になった時だった。


   *


 奇妙丸が上洛する数日前――最後に会った時だった。


 於泉は「お月見がしたい」と、奇妙丸にねだった。


「西の山のてっぺんに、芒がいーっぱい生えているんだって。侍女達が言ってたの。私が取って来るから、若が帰って来たら、お月見しましょう」


「芒? お前が取りに行くのか」


「そう。私が芒を取って来るから、若はお団子とか、お菓子を用意してほしいの」


「お前、それが目的だろう」


 目を細める奇妙丸に、於泉も笑顔を咲かせた。


「兄上達も呼んで、一緒に望月を見るの。きっと、楽しいと思う!」


 奇妙丸は御簾越しに、青空に浮かぶ白い月を見上げた。


「きっと帰って来る頃には、十五夜は終わっているかと思うがな」


「よいの!」


 於泉は頬を膨らませた。


 十五夜が終わっていても、望月がなくなるわけではない。十五夜以外に月を愛でたらいけないという決まりもない。


 奇妙丸と一緒に眺める。そのことに意味があるのだった。


 奇妙丸の掌が於泉の頬を擽る。お互い、不思議な思いでいた。


 ――ひょっとしたら、この先の気持ちが芽生えていたのかもしれない。後々於泉は思う。夏の終わりに吹いた風によって吹き飛ばされてしまう程度の、ごくごく幼い想いであった。


 奇妙丸が戻って来て最初の望月は、特に何も催されることなく、通り過ぎて行った。


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