思ひ出乞ひわずらい【伍】
*
「お前の娘がまた来ているそうじゃな」
主君の言葉に、恒興は肩を震わせた。
「ええ……某の娘は、恐れながら若様を慕っているようで。ご無礼な話にございます」
「侍女達が申しておる。池田の一の姫とあれがともにいると、まるで兄妹のようだ、と」
恒興は掌に汗が浮かぶのを感じた。
幼馴染で、乳兄弟。まだ「勝三郎」とただ呼ばれていた頃から見知った間柄だが、時折主君が何を考えているのか分からない。
子供のように無邪気かと思えば、地獄の獄吏達も青くなるようなことを平然と命じる。
恐ろしいのは、無邪気な笑顔を浮かべながらも、目に色を持っていない時だ。――たとえば、そう、今のような。
「勝三、ついて来い」
「御屋形様? 何をなさるおつもりで……」
「なぁに、何もせぬわ」
信長は、喉を鳴らした。しかし、浮かぶ双眸は光を失っている。そこに恒興は映っていない。
「お前の娘ならば、儂が身内も同然じゃ。……久しぶりに、あれの顔を見とうなってな」
*
『お傍を離れない』
その約束の通り、於泉は暇さえあれば奇妙丸の部屋に通い続けた。
勝蔵も勝九郎もいない、2人きりの空間。
奇妙丸に乞われるまま一緒に本を読んだり、かるたをしたり、貝合わせをしたり、絵をしたり、絵を描いたり……。
付きっ切りで、奇妙丸は於泉と遊んでくれる。それはかつて於泉が望んだことのはずだった。
(――違う)
於泉が望んだ奇妙丸の笑顔は、こんな張り付いた能面ではない。
於泉を褒めてくれる声は、こんな風に強張っていない。
於泉を認めて微笑んでくれるわけでも、褒めてくれるわけでもない。遠くに行かないように、恐る恐る枷を嵌めようとしているようだった。
(そんなことしなくても、泉は離れたりしないのに)
先日、垣根越しに隣の森屋敷を覗いた時だった。勝蔵は物珍しげな顔で於泉を見た。丁度槍の稽古をしていたらしい。忙しいならいい、と言ったのに、相手をしてくれた。
「あなた、若に会われている?」
「一度、尋ねた。が、ろくに話もしておらん」
「あんなに親しくしておられたのに? 若に何があったかも分からないの?」
「教えてもらえるくらいなら、おれが教えてほしいくらいだ」
そう言い、勝蔵はどこからともなく取り出したイモリをこちらに向けて来たので、慌てて於泉は逃げた。
勝蔵と奇妙丸は、まるで生まれた時から一緒にいたかのように親しそうに見えた。
勝蔵も勝九郎のように物を投げ付けられたのだろうか。
「……於泉? 如何した」
奇妙丸に呼ばれ、於泉は回想から戻った。物思いに耽るあまり、筆が止まっていた。
「これは何の花を描いておる? 秋だから……桔梗か? 萩の花か」
「花ではのうて、芒」
ほわほわとした胞子を筆で付け足すと、奇妙丸は「うまいな」と微笑むだけだった。
あの約束を覚えているのは、於泉だけなのだろうか。奇妙丸の中では、既に「なかったこと」になり果てているのだろうか。
約束は守らなければならぬと、そう教えてくれたのは奇妙丸だったのに。
その時、床が踏み抜かれんばかりの足音が響いた。奇妙丸が居竦み、於泉も肩を揺らした。
*
「それより先は、どうか……!」
侍女達が追い縋る声がする。しかしそれを振り払った後、戸が音を立てて開いた。
開いた戸の向こうには、背の高い男がいる。その傍らには、恒興の姿も。
鋭い瞳の色は、奇妙丸と同じ珊瑚の色。しかし、そこに奇妙丸のような優しさは一欠片もない。
奇妙丸の父にして、恒興の主君である、織田信長。
信長は於泉を一瞥すると、奇妙丸を瞳に宿した。珊瑚――というより、焔のような色をしている。
「奇妙丸」
怒鳴ったわけではないのに、屋敷中に響くほどの存在感がある声だった。
「お前は、稽古もせずに女子のような真似事をしておるそうじゃな。いつまで不貞腐れておる」
奇妙丸の身体がますます強張った。
「ひどい」
考えるより先に声が出ていた。奇妙丸が腕を掴んで来たが、構わなかった。
手が震えた。だが、奇妙丸を傷付ける人間に容赦する理由などない。於泉は、勝九郎から託されているのだ。若を頼む、と。
「若は、傷付いておられると言うのに! 何故そのようなことを言えるの!?」
「於泉、よい」
「よくないっ! 若がよくても、泉がよくない! いくら御屋形様とて、赦せるものか!」
「勝三」
信長の目が見開かれた。光を消し、口元が歪んだ。恒興は俯いたままだった。
「これがそなたの《一の姫》か」
「はっ。作用にございます」
「名は、何と言うたかのう」
「泉、と名付けております」
「於泉か」
信長がつかつかと歩み寄ると、於泉の前にしゃがみ込んだ。目線が合うと、蜘蛛の糸に絡め取られたように動くことができなくなった。
「なるほど――よーぅく似ておる……」
不意に体が傾いた。奇妙丸の腕の中に倒れ込んでいた。
奇妙丸は隠すように於泉を後ろに下がらせ、信長に向かって手を突いた。その背は小刻みに揺れている。まだ、誰かを護ることができるほど、大きくもない背中だった。
「此度の一件は……全て、某の不徳の致すところにございます。父上のお顔に、泥を塗ってしまったこと……心より、お詫び申し上げまする。なれど、この者は、勝三殿の姫は、男の関係もございませぬ」
どうして、と叫びたかったが、奇妙丸を見ていれば口を噤む以外なかった。
信長は笑いを含んだように於泉を一瞥すると、大股で部屋を出て行った。
手の甲に、涙が何滴も零れ落ちた。
奇妙丸は何も悪くない。それなのに、どうして奇妙丸が許しを乞わなければならないのだろう。
「於泉」
奇妙丸が笑った。於泉が大嫌いな、張り付いた笑顔だ。笑顔の面がより一層分厚くなったように思える。
「儂は、明日よりまた鍛錬を積む。故に、もうそなたと遊ぶことはできん。――下がれ」
奇妙丸の声が遠くに離れていく。
「……泉のことが、嫌いになったの?」
奇妙丸の姿が歪んだ。ぱたぱたと涙が音を立て、床に落ちた。
「俺が」奇妙丸が顔を上げた。「……儂が、於泉を嫌うはずなどない。きっと、儂にとって於泉は、生涯大切で、特別な女子だった」
奇妙丸の掌が伸びた。頬にも頭にも届くことはなく、落ちた。
「今までありがとう。許せ。……さようなら」
於泉が二の句を告げずにいるうちに、奇妙丸がその隣を避けて、部屋を出て行った。
*
――10日ほど経った。
あれから、於泉は駒若丸と遊ぶ以外に庭へ出ていなかった。駒若丸は於泉が家にいるのが嬉しいのか、尻尾を振っていた。
生涯大切で、特別だと言って。それでも奇妙丸は於泉から離れようとする。於泉を、手放そうとする。
於泉だけではない。勝蔵のことも、勝九郎のことも突き放す。独りぼっちになろうとする。
「そんなの、おかしい」
於泉は駒若丸の頭から手を離した。
「出掛けて来る。お前は、ここにいなさい。命令よ」
ちょうど辺りには誰もいない。於泉は、門を開けた。駒若丸がいるから、父も母も於泉は屋敷内にいるものとして考えてくれるだろう。
於泉は、沈む夕日に顔を顰めながら、駆け出した。
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