思ひ出乞ひわずらい【禄】

 一日というのは、かくも精彩を欠いたものだったであろうか。


 ぼんやりと、庭の石を眺める。

 あれから、於泉が奇妙丸の屋敷を訪ねて来ることはない。


(当然だ。来るなと、そう言ったのは俺なんだから)


 主家の若君に命じられたら、家臣の娘である於泉は、従わざるを得ない。

 於泉は、池田の娘。

 親しい顔をしながら、その娘の父は、信長とともに奇妙丸を売り飛ばした。


(当然だ、当然だ、当然だ……。全て、俺が、選んだことだ)


 つまらぬ一日が、今日も続く。


 あれから何度か木刀を手にした。しかし、奇妙丸が人と打ち合うことはなかった。

 刀を手にすることはできる。しかし、男達と向き合うことが、怖い。男と向き合うと、呼吸の仕方さえも思い出せずに倒れてしまう。


 それを見た信長は苛立ったように舌打ちする。弟達は、嘲笑して通り、家臣達は侮蔑を含んだように、


『あれが上様のご嫡男よ』


 と、噂する。


『よいのはお顔だけ』

『御屋形様も早く廃嫡なさればよろしいのに』

『女子であれば、駒としてもお役に立とうが、男ではなぁ……』


 今まで、奇妙丸の傍に現れたのは皆、父の味方だった。

 信長の威光を賜るために媚び諂うだけ。奇妙丸自身を見てくれる者など、ただの一人もいなかった。


 体を押さえ付け、動けないように縛られた手首の痛み。這い回る舌の感触。耳に掛かる腐った魚のような吐息。


 今も、消えない。


 厭な記憶ほど、根強く心に、体中に纏わり続ける。

 この気色悪い感情は、生涯奇妙丸に付き纏い続けるのだろうか。


(どうせ俺は織田家の、父上の手駒だ。なら、仕方ないじゃないか。父上は周りの人間は皆、手駒にしか思っていない。たとえ、実の親子といえども……)


『木登り、しましょうよ』


 耳に蘇ったのは、勝蔵の声だった。


 普通、主家の若君にそんな誘いはしない。

 戸惑う奇妙丸の手を無遠慮に掴んで引っ張りながら、勝蔵は白い歯を見せて笑っていた。


『あの木、登り甲斐があるだろうなぁ。あそこから見渡す城下は、きっと格別だ。自力で登った奴だけが見られる特権ですよ!』


 庄九郎は「若が怪我をされたら大変だ」と言いつつ、便乗していた。

 於泉だけが女子だから登ることができず、べそを掻く姿が哀れだった。


(勝蔵も、勝九郎も……俺が織田の継嗣だから……)


 後の当主に優しくし、信頼を得れば2人の将来も明るくなる。


 楽しかった日々も、所詮は幻だ。


 奇妙丸は自身を抱き締め、膝に頭を預けた。誰1人、奇妙丸を見てくれはしない。


『怪我、大丈夫?』


 風に吹かれ、紙が音を鳴らす。白梅が零れる庭の中を駆け回る犬がこちらを見ていた。


『若は、汚くなんかない。相変わらずお綺麗。会えて、嬉しい――』


 あの声だけは、あの笑顔だけは、真実だと思いたい――。


 初めて会った時から、不思議な縁のようなものを感じた。

 ずっと昔会ったことがあるような――そんな匂いを感じた。


 奇妙丸を追い駆けてくれる、小さな小さな少女。

 くるくると変わる表情が偽りだったことはない。


 ――だからこそ、穢したくなかった。


 権力を笠に着た男に好き放題嬲られ、汚されたこの手で、あの少女に触れてはいけなかった。


「……於泉」

『絶対、若と一緒にいる』


「勝九郎……」

『お怪我にだけは、気を付けてください』


「……勝蔵」

『若って滅茶苦茶強いんすね!! 次は槍! 槍なら負けませんよ!!』


 あの煌めく日々があった。それだけで、充分だ。


 あの笑顔も、声も、思い出も、何1つ忘れることはない。


 思い出だけを箱に仕舞っておくことができれば、いつかは憎い記憶も忘れることができるかもしれない。――何も知らない顔で、笑ったふりを続けるくらいはできるようになるかもしれないと、


 思っていた。


 床板が踏み抜かれんばかりの足音が響く。咄嗟に立てかけてあった刀に手を伸ばす。入って来たのは、勝九郎であった。


「……っ」咄嗟に肩を強張らせた奇妙丸に、勝九郎は礼儀もわきまえず捲し立てた。


「妹は、於泉は来ておりませんか!?」


「……なに?」


 勝九郎は部屋を見渡した。於泉の姿を探っているようだった。


「どういうことじゃ。於泉がいない、とは」


「昼過ぎに庭にいるのは皆見ているのですが……いつの間にか、姿を消しておったのです。てっきりこちらにお邪魔しておるのではないかと思ったのですが」


      *


 すぐ近く、と聞いていたから、城に行くのと左程変わらないくらいの距離かと思っていた。山に辿りつくだけで、半刻ほど掛かってしまった。頂上に着いた時には、日が西に沈み切っていた。


「早く、戻らないと……」


 腕は虫に刺され、草で傷だらけになっている。薄暗くなった頂上で、於泉は息を呑んだ。


「わあ……」


 辺り一面に広がる、黄金の芒。太陽と月が入り混じった下では、幻想的に映っていた。

 その中でも丈夫そうな、元気のいい芒はもう少し奥の方に行かなければならない。於泉は意を決して、芒の群れに身を投じた。途中、頬を切り付けられた気がしたが、些細な問題だった。


(お月見をしたら、若はまた、笑ってくれる。また、みんなで一緒にいられる)


 うまく摘むことができない。力が入らない。時折転びそうになりながら、芒を摘んでいく。

 両手に抱えられる分だけ芒を持って行けば、奇妙丸の面を外すことができる。


 夢中になっていたせいか、その先に崖があることになど気が付かなかった。

 崖のことを思い出した時には、既に草履が地面の上を滑り落ちていた。

 

「きゃあああああああ!」


 咄嗟に出っ張った岩を掴む。折角取った芒が下へ舞う。闇が深く、底が見えない。指一本動かそうとしただけで、小石の破片がぱらぱらと落ちた。


「だ……っれか……」


 黙って城を抜け出したから、於泉がここにいることを知る者はいない。

 供を連れていないのだから、誰も来るわけがない。掴んだ岩が小石をまき散らす。於泉を支えるにはあまりにも脆い岩だった。


(誰か、助けて)


 彼岸も空しく、岩が落ちる。吸い込まれるように、於泉の体は闇に呑まれて行った。

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