思ひ出乞ひわずらい【質】
*
もうだめだ、と思った。しかし、於泉の体が闇に塗れることはない。
於泉の倍以上はあるであろう大きな掌が、於泉の手首を掴んでいたからだ。
「あ、に上……?」
目線を上げたそこにいたのは、勝九郎ではなかった。
「勝蔵殿……!」
「無事だな!」
必死な声に、於泉は泣きそうになりながら頷いて見せた。
「今、引っ張り上げてやる!」
於泉が返事をする間もなく、勝蔵が一気に腕を引っ張った。そのまま、勝蔵の胸に倒れ込む。
息を切らす勝蔵の額は、汗でぐっしょりと濡れていた。
涙を流しながら、死にかけた恐怖に喘いでいると、「わん!」と、聞き慣れた鳴き声が響き渡った。
駒若丸だった。
「駒若丸が、案内してくれたんだ。勝九郎が、焦って屋敷から出て行くのが垣根越しに見えて……。お前ん家の侍女に聞いたら、於泉がいなくなったって聞いて……」
勝蔵の顔がぐにゃりと歪んだ。
「あ、安心しろよ」慌てたように勝蔵が取り繕う。「勝三殿には、おれが連れ出したって言ってやるから。あんまり怒られないように、俺も一緒に怒られてやるから……」
「……違う~~~」
於泉は勝蔵の胸に顔を埋めた。掌がひりひりと、焼けるように痛んだ。
驚いたように固まっていた勝蔵だが、しばらくすると、恐る恐るといった風に、於泉の髪を撫でてくれた。
大嫌いなはずだった。お互いに。
それなのに、勝蔵は駒若丸の鼻だけを頼りに、ここまで来てくれた。そして、勝蔵が来てくれたことが於泉には嬉しかった。
(温かい……)
ぼさぼさになった頭を撫でる掌に目を閉じる。
(勝蔵殿に、救われた命だ)
於泉は泣きぬれた瞼を閉じながら、そっと自覚したのだった。
*
「お前、何でこんな山奥に来てたんだ?」
崖から落ちるときに足を挫いた於泉を背負いながら、勝蔵はなるべく優しい声を心掛けているようだった。
「芒を、取りに来たの」
「芒?」
「若が京に行かれる前、お月見をする約束をしていたの。……でも、結局芒は落としちゃったし、そのせいで、勝蔵殿にはご迷惑を掛けて……ごめんなさい」
「そっか」
納得したように、勝蔵が於泉を背負い直した。
「於泉は約束を守りたかったんだな」
勝蔵の背は、温かい。居場所を奪って来た、憎い相手と思っていたのに。
於泉が一番危ない時には、助けに来てくれて、手を差し伸べてくれる。
勝蔵は少し悩むと、於泉を岩の上に座らせた。姿が見えずに不安になったが、すぐに芒を持って戻って来た。
「ほら、帰るぞ。若に、届けるんだろう。ちゃんと持ってろよ」
芒には、葉がなかった。指を切らないように、勝蔵が小刀で切ってくれていたのだった。
勝蔵に差し出された掌を素直に取る。しかと握られた掌は、傷だらけで肉刺だらけだった。奇妙丸のような滑らかな手とも、勝九郎の大きいだけの掌とも違う。
背負い直されながら、ゆっくりと揺さぶられるのが心地よかった。
「一緒に怒られよう」
「勝蔵殿、悪くないのに」
「俺はいいんだ、慣れてるから」
それに、と勝蔵が振り向いた。
「怒られても、俺と於泉で分けられるんだ。一人で怒られるのは怖くても、二人でなら少しはマシだろ」
初めて見た無邪気な笑顔がこそばゆい。
於泉は「うん」と相槌を打つことで精いっぱいだった。
*
城に辿り着くなり、勝蔵と於泉はそれぞれ父親からこっぴどく怒られた。
ついて来た駒若丸が「きゅん……」と鼻を鳴らし、しっぽを丸めて頭を隠していた。
勝蔵は関係ないのだと言いたかったが、そんな隙も与えられないほどの剣幕だった。
何より、勝蔵自身が於泉に「言わなくていい」と制したのだった。
「おれは叱られるのに慣れているから。……それに、さっきも言ったけど、叱られるなら、2人で半分ずつの方がマシになるだろう?」
「でも、ごめんなさい……。勝蔵殿を巻き込んで……」
「いいから。ほら、顔を上げろ。若のところに行くんだろう」
勝蔵は於泉の腕を引っ張った。
「若が勝九郎と一緒に、お部屋でお待ちだ。大層心配されていたぞ。しかとお詫びして来い」
恒興の言葉に頷きながら、於泉は勝蔵の袖を空いた方の手で掴んだ。
「一緒に、来てくれる?」
「……おれも行ってよいのか?」
「来て」
傷だらけの掌を掴んで、引っ張った。勝蔵はさしたる抵抗もなく、付いて来た。
大きな掌を引き、いつもよりも緊張しながら奇妙丸の部屋までの廊下を歩く。
侍女達が慌ただしく走り回る中、それを割って2人の少年が於泉達の方に駆けて来る。
奇妙丸と勝九郎だった。
「馬鹿!」
勝九郎の指が於泉の傷だらけの頬に食い込んだ。
「嫁入り前の娘が、斯様な傷を作って……! 大事ないのか!? 無事なんだな!?」
勝九郎に「ごめんなさい」と於泉は頭を下げた。
頬を抓る兄の掌は汗ばみ、爪の食い込んだ痕がある。どれだけ心配させたのか、言われなくとも伝わった。
勝九郎の肩を奇妙丸が押し退けた。あれ、と於泉は内心で首を傾げる。会わなかったのはたった数日だというのに、奇妙丸は随分背が伸びていた。
「この――馬鹿!!!」
於泉はびくりと肩を揺らした。
「どれだけ心配したと思うておる! お前の父母や兄弟だけではない、そなたを知る者は皆心配しておったのだぞ! それを、お前は……!」
芒を抱く腕が震えた。
(若に笑ってほしくて)
それは、於泉の都合だった。恒興も、可成も、勝九郎も……そして、奇妙丸と勝蔵にも心配をかけた。
ごめんなさい、と嗚咽に交えるより先に勝蔵が1歩前に出た。奇妙丸の目が見開かれ、1歩後ずさった。
「若は、覚えておられぬのか。於泉との約束を」
勝蔵は、於泉の掌を奇妙丸に向けた。薬草を塗りたくられ、包帯を幾重にも巻き付けられている。奇妙丸は痛ましげに於泉を見つめた。
しゃくり上げながら、於泉は奇妙丸に「ごめんなさい」と、頭を下げた。
「於泉」
奇妙丸が於泉に目線を合わせ、膝を突いた。於泉の掌を取り、麗しい顔が歪められた。
「あのような些細な口約束のために、お前は……こんな無茶を……」
頬に奇妙丸の掌が当たる。手首の包帯は以前よりも薄くなっていた。
「於泉にとっては、『些細』ではなかったんだよな」
勝蔵に促され、於泉は頷いた。奇妙丸の掌が於泉の両頬を包み込んだ。
温かい。温もりの失せた傷だらけの掌ではない。
奇妙丸は於泉を真っ直ぐ見据えた。勝九郎、勝蔵の順で視線が動かされる。
奇妙丸の目が潤んだ。
「すまぬな、於泉。もう大丈夫じゃ、儂は。……儂には、お前達がいるのだな」
わんっ! と駒若丸が鳴いた。勝九郎がわざとらしく目を怒らせる。
「こら、於泉! 勝手にお庭に駒若丸を入れるなど……!」
「よい」奇妙丸が目元を拭った。侍女を呼び寄せ、菓子の支度と、芒を入れる花瓶の用意を頼む。
空に浮かぶ月は、まだ満月ではない。
「別に、月見は満月でなくともよかろう? 勝三殿と三左殿には儂から言うておくから」
奇妙丸の微笑みからは、面が剥がれていた。侍女に芒を渡すと、於泉は駆け出した。勝九郎と奇妙丸が歩く後ろを、ぼんやりと勝蔵が歩いている。
「勝蔵殿」呼び掛けると、勝蔵は意外そうに振り返った。
「あの、ありがとう。助けに来てくれて」
引き上げてくれた腕の逞しさも、背中の温もりも、於泉は一生忘れることはないだろう。
「……ありがとう、勝蔵殿」
於泉が微笑むと、勝蔵が目を反らした。腰に下げた袋を何やら探っている。
「お前、結構根性あるな」
勝蔵は口元に笑みを湛えている。
まるで、黒鳶色の明るい瞳は、鋭さを帯びた琥珀のようだ。
その瞳に吸い込まれた時、於泉は今まで感じたことのない痛みを覚えた。心の臓を鷲掴みにされたような。
「女子一人で山を登るなど、普通ならばできん」
「……怒られたけど」
「おれなど父上や兄上や爺に叱られな日はない。……お前も試しに木登り、一緒にしようか。またああいうことが起きたら、咄嗟に自分の身を守れるように」
「でも――女子には必要ないと、兄上が」
「女子だからだめだっていう決まりもねえだろ」
勝蔵が於泉の口に何かを押し込んだ。
「なかなか面白いな、お前」
人懐こい笑顔に、微笑み返すことはできなかった。先程とは違う動悸が於泉を襲った。
口から出た、真っ黒い細長いもの――イモリの黒焼きだ。
「きゃああああああああ!」
於泉の悲鳴に駒若丸が吠え、勝九郎が振り向いた。
「兄上ええええ!」
イモリを吐き出しながら、兄に向って突進する。奇妙丸が勝蔵を叱り付けている間、於泉は勝九郎に抱き着いてわんわん泣いた。
*
「……本当、あの頃は勝蔵殿が嫌いで嫌いで仕方なかったわ……」
遠い目をしながら於泉がぼやくと、三丸達が深々と頭を垂れた。
「愚兄が申し訳ないことを致しました」
「あれに悪気はないのです」
「とはいえ、女人に対してすべきことではない。弟として、深く陳謝致しまする」
「……まこと、あなた達は勝蔵殿の弟君とは思えないほどしっかりしているのねえ。あの頃の勝蔵殿に見せてやりたいわ」
乱丸に至っては、初めて出会った時の勝蔵の年を越え、今年で7歳。
だというのに、人にいきなりイモリなどを食わせる真似はしないほど行儀もいい。愛らしい琥珀の双眸を見つめ、於泉はよしよし、と代わる代わる勝蔵の弟達の頭を撫でた。
「何だ、女子供でおれの陰口か」
ぎしりと床が音を鳴らす。於泉は三丸達とともに顔を上げた。
長可、庄九郎、奇妙丸が立っている。
「昔話をしておりました」
於泉は、笑みを浮かべながら、立ち尽くす男達に告げた。
「若と初めて会った時のことや、わたしが勝蔵殿のことを大っっっっ嫌いだった時のことなどを」
「そんなに力を込めて言うなよ……」
「だって事実だもの。いきなりイモリを突っ込むような人のこと、好きになるわけないじゃない」
「それは――随分懐かしいことじゃな」
奇妙丸が微笑む。庄九郎が縁に茵を引いてくれたので、その上に千丸を寝かせた。千丸は微動だにすることなく、すやすや寝息を立てている。
あの月見から、もう6年も経つ。長可は一足先に元服を終え、家督を相続した。
庄九郎は、今年の正月から奇妙丸の小姓として出仕している。
奇妙丸も、そう遠くない未来で元服し、大人になってしまうのだろう。
於泉も、そのうち叱るべき相手に輿入れするのだ。
寂しく、時の流れを否応なしに感じてしまう。
それでも、叶うなら、今しばらくはこのままで。
ずっと、一緒に。
その約束が叶うものだと信じていたかった。夢物語でも、心で思い描くこと自体は自由なはずだから。
*
四丸達と駆け回る於泉を見つめる奇妙丸の瞳は優しい。
庄九郎は茶の支度をするために、席を外している。奇妙丸と長可は、並んで縁に腰掛けていた。
「昔話、か」
そう言い出したのは、奇妙丸か、長可か。どちらでもよかった。
「懐かしいな。……あの頃のことなど、思い出す暇もなかったが」
「そうですね。色々、目まぐるし過ぎて――」
父が死に、兄が死に、次男だった勝蔵に家督が回って来た。長可と名を改めた今は、時折岐阜を訪れるが、普段は金山の城で政務に励んでいることが多い。
奇妙丸は元服は果たしていないが、戦場に同行させられることが増えた。優雅な立ち振る舞いや凛とした佇まいには、京の公達だけでなく目を奪われるほど。
「……あの頃」長可は何気ない風を装いながら、乱丸達と追いかけっこしている於泉を見つめた。「あの頃、若にとって於泉は、特別な女子でしたよね、間違いなく」
今はどうなのか――問おうとすると、
「さあな」
と、奇妙丸に流された。
「安心せい、お前から奪いはせぬ」
「は? なんのことですか」
「好きに受け取れ。……儂は、それでよい」
奇妙丸は目を細めた。
「儂に必要なのは――咲かずに散った蕾ではない」
奇妙丸の、珊瑚色の双眸が長可を見据えた。
「嫡男だからと特別扱いせずに剣や槍を打ち込んで来る悪童と、儂をひたすら案じてくれる近習と、時折儂の心を和ませてくれる妹分。これでいい。儂の花は、これで充分じゃ」
(若は、織田の若君なのに)
望めば、家臣の娘を側女にして置いておくくらいできるだろう。散った蕾を咲かせることだってできる、そういう立場だ。
しかし、奇妙丸はそうしない。散った蕾は土に還し、手元に残った花を愛おしむのだ。
「あんたのこたぁ、おれが護ってやりますよ」
腕を組んで、目線を反らした。
「頼りにしておるぞ」
愉快そうに口を歪めながら、奇妙丸も同じように目を反らした。
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