鬼涙禄。

      *


 屋敷が、静まり返っている。

 昼間は聞こえない母の嗚咽が、夜闇という衣を被いて、勝蔵の部屋にまで聞こえて来た。


 子供達の前で、母が涙を流すことはない。葬儀の時も涙の一滴さえ、母が見せることはなかった。


(気丈な女ひとだ)


 と、勝蔵――改め長可は思う。


 酷い戦だった、と誰もが口を揃えた。森家が失ったのは父だけではない。

 後を継ぐはずだった伝兵衛でんべえも失った。森一族の命運と、美濃国金山五万石は長可の肩に乗せられた。


 母からは、「強い男になりなさい」と言われた。


『自分のためではなく、ただ一人と決めた御方のために槍を振るいなさい。――義父上のように』


 順当に行けば、幼馴染の庄九郎同様に、長可も織田家の小姓になるはずだった。信長の下で行儀を習った後、奇妙丸辺りの配下に与えられるのだろうと思っていた。

 乱丸達は、「これからどうなるの」と長可に縋って来る。しかし、長可自身分からなかった。誰かに教えてほしいくらいだ。信長と可成から一字貰って「長可ながよし」などと名乗ってはいるが、未だに間隔は勝蔵のままだった。


「わ――殿」


 侍女達も、若、と呼び掛ける。


(若のままでいいのに……)


 と思いながら、のろのろと顔を上げた。


「池田家の庄九郎様と於泉様がいらしております」


 勝九郎。於泉。


 二人の名前を無意識に唇に乗せた。しかし、音にはならなかった。二人を呼んだことすら、長可は気が付いていなかったのだから。


「勝蔵殿……」


 並んで入って来た二人は、相変わらず似ていなかった。通じているのは、蘇芳の双眸くらいのものである。


(むしろ於泉は、勝九郎や勝三殿よりも……)


 長可がぼんやりとしている間、兄妹はどちらが話を切り出すか相談していたが、眼の赤い於泉は口を開こうとしなかった。庄九郎がようやく、


「大変だったな」


 と切り出した。


 聞き飽きた、ご愁傷様、でもなく、悲しいな、と慰めるでもない。ただ事実を言ったのみだ。


「……うん」


 長可もそれだけ答えた。


「えっと……何と呼べばいい? もう、『勝蔵』ではなかろ?」


「『勝蔵』でいい」


 今後は「長可」の名を名乗らねばならぬと分かっている。しかし、いきなり大人になることなどできるはずもなかったからだ。

 実際、自ら偏諱を与えておいて、信長も相変わらず「勝蔵」と呼んで来る(しかし信長の名付けの才を考えれば幼名で呼ばれるという点はいくらかマシというものだ)。


「勝蔵と、そのまま呼んでくれ」


「……勝蔵殿」


 於泉の声は湿っていた。いつも鼻歌を歌う音は、鈴の音が転がるようなのに。於泉は伝兵衛にもよく懐いていたから、その寂しさも一塩なのだろう。


「勝蔵殿、泣いてもいいのよ」

「泣く必要がない」


 これは本心だった。この戦国乱世、今この瞬間にどこかで身内が死んでいてもおかしいことは何もない。庄九郎だって、

 何より、これから森家を背負って行かなければならない重責のせいか、長可の涙腺が緩んだことはなかった。


 於泉がまた顔を歪ませた。今までなら頭を撫でるなり、「不細工」と、揶揄うなりして来た。しかし、元服した以上、これまでと変わって行くのだろうと思った。

 少なくとも今までのように、於泉と気軽に顔を合わせるのは世間体を考えるとよくない気がした。ただでさえ兄妹の母は、於泉が垣根を越えて森家に出入りするのをよしとしていないのだから。


 池田兄妹との関係、何より奇妙丸との関係がこの先変わっていく気がした。


 今までは、4人で仕様もないことで大騒ぎしては、喧嘩したり遊んだり、悪戯をして河尻に追い回されて半日罰則を与えられたり――そんなことばかりしていてもよかった。4人とも子供だったからだ。


(でも、もう子供じゃないから)


 2つしか違わない於泉の頭を気軽に撫でるわけにはいかない。庄九郎と言い合うこともない。奇妙丸を気軽に木に登らせたりしてもいけない。


「……気遣い、有難く頂戴致す」


 於泉だけではなく、庄九郎も傷ついた顔をした。だが、長可の心は冷え切ったまま動くことはない。


「明日は、若殿にご挨拶申し上げる。庄九郎、若殿にお会いしたらそのようにお伝えいただきたい」


      *


 於泉が鼻を啜る音がする。いつもなら鬱陶しいと切り捨てるのに、庄九郎は珍しく叱咤することはない。かといって、半歩遅れてついて来る妹の手を引いてやるほどのゆとりもなかった。

 価格も比較的近く、武家屋敷が隣同士。年も近い。父親同士も親しかったから、自然と悪友と呼べる仲になっていた。付き合いだってそれなりの長さになっているのだが。


(あんな勝蔵、見たことない……)


 勝蔵はいつも短気で、人の話を聞かなくて、底なしに明るい少年だった。

 泣きもせず、笑いもせず、礼儀正しいふりをして挨拶をする「長可」のことなど、知らない。


「勝蔵殿、泣いてた」

「は?」


 於泉は、蘇芳色の双眸からはらはらと滴を滴らせた。日に焼けた頬が涙の道を作り、きらきらと輝いた。


「心の中で、すごく泣いてた」


 於泉は瞼をぎゅっ、と締め付けた。


「自分でも、きっと分からないんだよ。だって、ついこの間までただの次男坊だったのにさ。立場で言えば、うちの古新と同じだったんだよ。それがいきなり当主になれって。……そんなもの、背負わされたら、泣けないよ。重いもん」


「珍しいことじゃない」


 この時世だ。いつ何が起こったとしても、おかしいことなどない。

 庄九郎が今死んだら、弟達のいずれかが後を継ぐだろう。一番当主と血が近く、年齢的に見合う者に白羽の矢が立つだけだ。

 それでも――あの屈託のない悪友の笑顔は、もう二度と見られないのだろうか。そう思うと、どこか口惜しくもあった。その笑顔を自分達では取り戻してやることができないことも。


「ねえ、兄上」

「何だ」

「兄上は、泉のことを置いて行ったりしないでね」


 於泉のすすり泣く声と、過ぎ去った一月前が行き来する。冷えた風の音を耳にしながら、あと少しの家路を急くように、庄九郎は妹の腕を掴んだ。


       *


 いつも4人で駆け回った庭だった。

 木登りついでに枝を折って叱られて、しようもない悪戯を仕掛けては捕まって、饅頭の大きさが違うと言っては取り合って誰かが泣くまで取っ組み合って正座させられて。

 槍術、組手、剣術、砲術……。

 思えば、色々なことを共にして来た。


 奇妙丸の部屋の前に到着する。ついこの間までは「入りますよー」だなんて気軽に開け放ってもよかった。しかし、これからは違う。


(俺は立派に母上や弟達を守らねばならん)


 今まで気軽に出来たやり取りができなくなると思うと、木枯らしの匂いがした気がする。それでも長可の行動一つで、森家が終わる。これまでの乱暴者の勝蔵であってはいけないのだ。


「森長可、入ります」


 許しが出る前に、一瞬息を呑んだ気がした。だが、戸の向こうにいた奇妙丸はいつもと大して変わらない、落ち着いた顔をしているように見えた。鋭い珊瑚の双眸が長可の姿を映し込んだ。


 奇妙丸は小姓に人払いを命じた。部屋の中には、奇妙丸と長可の二人きりになる。


「勝蔵、近う」


 手招きされ、赦される範囲に歩を進める。近くに、と呼ばれるのは初めてだった。これまでは、言われる前に、蹴飛ばしそうな勢いで近付いていたからだ。


 幼馴染の悪友ではなく家臣なのだから、これでいい、はずだ。


「三左殿や伝兵衛殿のこと……大変であったな」


「いいえ」


 長可は頭を振った。信長や織田家の重臣達は皆励ましてくれたし、葬儀の手配も周りがやってくれた。これからは父や兄の分も森家を盛り立てて行く義務がある。


「勝九郎達も心配しておったが」


「考え過ぎです。お――某は平気にございまする。この戦国乱世、明日は我が身。いつ何時この身が滅びようと分からぬ時世にございます。父や兄も、覚悟はしていたはず。むしろ、御屋形様のために果てられたのなら本望です」


「……そうか、分かった」


 言いつつ、不意に奇妙丸が立ち上がった。


 次の瞬間、体が真横に吹き飛んだ。訳も分からず目を白黒させていると、奇妙丸の肩越しに天井が見える。そのまま鳩尾を踏みつけられ、頬を強かに2、3発殴り付けられた。口内が切れて、血の臭いが口内を満たした。


「痛いか」

「あ、当たり前です!」

「ならば、泣け。気に入らぬことがあるならば、やり返してみせよ、いつものようにな!」


 馬乗りになった奇妙丸の拳が割れた。それを見た瞬間、長可の頭の中で、ぶつん、と音を立てて何かが切れた。頭で考えるより先に、奇妙丸の頬を拳が捕らえ、吹き飛ばしていた。


「痛ぇな、このバカ殿!! ちったぁ手加減しろや!!」


 言い切ってから、冷水を浴び時のように頭が冷えた。


(やってしまった……)


 これまでならば子供同士の諍いで済んだことだ。しかし、元服した以上、それだけでは済まない。長可の振る舞いは、森家への評価に直接繋がる。

 奇妙丸がよろめきながら起き上がった。秀麗な顔は頬が赤く腫れ、口の端に血が滲んでいる。

 奇妙丸はその血を小指に乗せると、一文字に引き結んだ唇に伸ばした。紅が塗られたように広がった。

「腑抜けた面を見せるでないわ」

 奇妙丸の声が部屋に響き渡った。少年特有の、大人と子供の中間にあるような高い声だった。しかし、傍聴する者を圧倒する、響き渡る質である。


「父上から、お前は儂が配下に置くよう命じられた」

「…………」

「儂の下に、腰抜けは要らん。――己が心を偽る愚か者など、今すぐ去ね! 痛いと泣いてばかりの奴は要らん、が、泣く術を忘れたフリをする大嘘吐きなどもっと要らん!」

「……っせぇ!!」


 奇妙丸の胸倉を捻り上げる。若干長可より目線が下の奇妙丸は、爪先立ちになった。


「あんたに何が分かる!! 俺は、守らなきゃなんねえんだよ!! 親父も兄貴も死んだ! これからは、まだガキの弟達の面倒見て、お袋支えて、嫁に行ってない妹達のこと他所にやって……。……あんたに何が分かる! 俺の重圧なんざ」


 完全なる八つ当たりだ。奇妙丸が抱える重圧は、長可の背負うそれなど比較にもならない。

 いずれ日ノ本を背負うことになる奇妙丸は、常に押し潰されそうな圧を背負っている。


「知らぬわ、貴様の気苦労なぞ」


 手を払い除けられた。代わりに、鳩尾に拳が叩き込まれる。その場に頽れると、頭を踏みつけられた。


「泣け、命令じゃ」

「……ってぇな……」

「痛いか。そうか、ならば泣け」

「だから、意味、分かんねえ」

「分からずともよい。人とは、痛ければ泣くようにできているものじゃ」


 視界が歪んだ。痛い。殴られた顔中も、鳩尾も、そのせいで、胸も。


 獣のような声が鳴り響く。奇妙丸はその獣の隣に座り込むと、雑に頭を撫でていた。


      *




「俺は、お前の主君だ」


 腫れ上がった顔の上に、濡らして絞った手拭いを乗せたまま、声の方を振り返る。


「だが、兄弟同然にお前とは、お前達とは過ごして来たと思うておる。だから、これからも慣れぬ態度を取るな。気持ち悪い」

「気持ち悪いって……」

 言い返し掛けてから、悪戯心が思い浮かんだ。

「……ひょっとして、若、寂しかったんです?」

「うん」


 揶揄っただけのつもりだった。それが思いのほか素直に認められた。涼しい顔をして袖で唇を拭っている奇妙丸を目にしながら、却って長可の方が戸惑ったくらいだ。


「お前は、俺にとってはずーっと勝蔵じゃ。木に登らせて俺を放置して、顔面に木刀を叩き込んで来て、くだらん悪戯を仕掛けて爺に叱られていた、悪友のままじゃ」

「一応元服したんですけどね」

「たかが儀式じゃ。それでお前が変わるわけではなかろ」


 奇妙丸の珊瑚色の双眸が長可の方を向いた。

 凛として儚げに輝く、宝玉のような瞳。それでいて意志が強く、一度視線を交わせば、引き寄せられずにはいられない。


「確かに、時は残酷なものじゃ。勝手に過ぎて行く。俺達は抗うことはできない。致し方ないことじゃ――が、お前自身が別の何かになることはないし、俺が別の何かになるわけでもない。お前は何があろうと俺にとっては幼馴染で悪友の、勝蔵に過ぎぬわ」

「そ……ですか」


 目が熱くなった。鼻の奥がつんと痛む。声が湿ったのがバレないように、わざと大袈裟に笑い声を立てた。


「じゃあ、一生傍にいて、あんたに迷惑かけてやってもいいってことですよね、若」

「おう。望むところぞ」


 ふっ、と奇妙丸の笑む声が聞こえる。その声が変わらずいてくれることが嬉しくて、長可は寝転がると、手拭い越しに掌で顔を覆った。


「ほんとはさぁ……すっげぇムカつくんですよ。何勝手に死んでんだよ、くそ親父、って」

「……そうか」

「伝兵衛兄にしても。帰って来たら、槍の稽古つけてくれるって言ったくせに。しかもあのバカ兄、いい年だし、縁談だっていくつか上がってたんですよ。顔はいいから。なのに」


 出陣前、見送る背は大きかった。鎧兜だけではなく、「勝ったぞ!」と、笑って帰って来てくれると、誰も疑っていなかった。

 しかし、帰って来たのは鎧兜だけだった。


 早えんだよ、2人とも。


 いつ会えなくなっても不思議ではない。それでも、こんなに早いわけがないと、油断していた。

 もういないのだ。痛いほど撫でてくれる傷だらけの掌も、強くなれと鍛えてくれる声も、もう2度と。


「絶対ぇ、生きてやる。あの2人よりも、ずっと、長く……!! だから、あんたも死ぬなよ、若」


 2人は主君のために――信長の織田家のために、生き抜いた。


『強くなりなさい。父上のように』


 母の言葉を反芻する。

 可成が強かったのは、守るべきただ一人が居たからだ。伝兵衛も同じく。

 2人が信長のために生き抜き果てたのなら――森長可は、織田の次世代のために生きる。


「それは、重い言葉よの。安心致せ、勝蔵」


 奇妙丸が隣に寝転がる。腫れたり切れたり、ひどい顔だった。

 首だけで見つめると、赤い唇が弧を描いた。


「勝蔵、俺はお前を置いて死にはせん。安心しろ。その代わりに、お前も俺を置いて死ぬでないぞ」

「はははっ! そりゃ、まだまだ死ねねえなぁ! 承知捕まった! 俺はあんたに命預けますよ、若!」


 笑い声が、床の上にぶつかって響き渡った。軽い調子で、しかし2人にとっては重く強い誓いであった。




























 ――ずっと、傍に仕えられたら、きっとそれだけでよかった。


















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