忍ぶれど……【壱】

      *


 せ上がる血の臭いと砂埃を纏った風が陣営の更に奥地に潜ませた陣幕の裏にまで届く。


「不穏な」


 奇妙丸が柳眉を潜め、遠くを見つめた。顔は動かさず、斜め後ろに向かって言葉を掛ける。


「お前は如何に思う?庄九郎しょうくろう

 そこには、奇妙丸の小姓で今年13歳になる池田いけだ庄九郎しょうくろう元助もとすけが控えていた。


 庄九郎は長い睫毛を伏せたまま、「恐れながら」と前置きをして口を開いた。


「我が軍の最大の要が落とされることなければ、勝利は間違いないものだと思われまする」


 庄九郎の重苦しい物言いに、他の小姓衆達が噴き出した。

「庄九郎は、相変わらず考えすぎじゃ」

「だが、念には念をとも言う」

「いやいや、慎重も過ぎればただの臆病と同じよ」

「しっ。聞こえておるぞ」


 今、織田軍の勝利はほぼ目前と言っても過言ではない。喜び勇んでいないのは奇妙丸と庄九郎くらいのものである。要と言えば本陣や総攻撃を行う部隊のことを示すのが一般的だ。守備も攻勢も充分過ぎるほどである。それでも勝利を確信できない態度の庄九郎を、他の者達は遠回しに「臆病者」呼ばわりした。


「庄九郎――」奇妙丸の目が動いた瞬間――庄九郎は刀に手を掛けた。

 ああっ、と誰かが悲鳴を上げる間もなく、奇妙丸の喉元に向けて払い除ける。――皮一枚。奇妙丸の足元に苦無が落ちた。


「若をお護りせよ!」


 怒号を張り上げ、庄九郎は拾い上げた苦無を離れた位置にそびえ立つ木に向かって投げつけた。空を切りながら向かった苦無と対になる方角より、3本の苦無が飛んで来た。うち一本は庄九郎の投げた苦無を弾き飛ばし、残り2本は刀で払い飛ばす。弾いた鉛の影から、黒い影が飛び出すのが見えた。


 深い藍色の装束と、長い髪。背丈は庄九郎とほとんど変わらないくらいであろう。足が速い。腕達者であることは間違いない。あの藍の装束の者以外に殺気を感じなかった。とはいえ、気が緩んでいたのは、庄九郎の失策であると言える。

 庄九郎は腰から鉄砲を取り出す。表には出回っていない、片手で容易に扱うことのできる鉄砲の火薬を切った。みるみるうちに小さくなって行く背に向けて引き金を引く。


 ダァン!


 銃声とともに、火薬の臭いが飛び散る。藍の周りに鮮血が飛び散った。背中しか見ていなかった藍がこちらを振り返り、飛び散った紅い花弁の隙間から苦無を飛ばす。自らに当たる直前、庄九郎は刀身で払い飛ばした。刀を下ろした時には、もう庄九郎以外に人間はいない。残るのは火薬の臭いと、足元に落ちた苦無のみであった。


      *


 ――美濃国岐阜城――


 庄九郎が書簡を手に歩いていると、水が跳ねる音がした。

 目線を音がした方角にやると、桜吹雪の中で侍女と思しき女が池に餌を撒いていた。

 髪が長い。陽光の下で風になびく毛先は、たっぷりとしていて夜空のようだった。

 柄にもなく魅入っていると、女が顔を上げる。女は、切れ長の瞳を見開くように庄九郎を見つめていた。

「……何か」

 先に見つめたのは自身だと言うのに、そのことを忘れて庄九郎は問い質した。

「あ、いえ……」女は、表情を引っ込めながら、立ち上がった。「奥方様に、何か御用でしたか?」

 奥方様、というのは信長の正室・濃姫(帰蝶)のことである。ということは、この女は濃姫の侍女らしい。

「御免。若殿――奇妙丸様から、奥方様に書簡をお預かりしております。お取次ぎ願えるだろうか」

「承知致しました。ご案内致します」

 女は餌を入れた鉢を持ち直し、庄九郎の前を歩いた。


(――錦絵のような女人だな)


 先を歩く女の背と、揺れる髪をじっと見つめる。


 普段興味など示したこともない芸術作品達を思い浮かべる。父からは常々肩を落とされ、隣家の幼馴染からも「何でだ」と唖然とされるほど淡泊な自覚がある。


 月光を吸い込んだような黒髪と、揃いの瞳。

 陶磁器のような透き通る肌。

 桜色の唇。


 奇妙丸も人並み以上に美しい顔立ちをしていると思っていたが、この女は奇妙丸とはまた違った美貌を醸し出している。

 女にしては背が高く、庄九郎より二つ三つは年上だろう。


「あの……」


 女が声を出した。男ほどではないが、女にしては少し低いように感じた。


「あなた様は、若殿のお付きの方なのですか?」

「ああ。一昨年までは御屋形様の下でお仕えしていたが、先年から若殿付の御小姓としてお世話になっている」

 行儀見習いも兼ねて、一昨年までは信長の下にいた。

 去年の正月にようやく奇妙丸の配下に下ることが許された。元々庄九郎の場合、奇妙丸の下に置くことを前提に引き合わされていたので、特段驚くこともなかったが。


「……池田勝三郎が一子、池田庄九郎だ」


「庄九郎、様……」女の桜色が声を鳴らした。「私は、ご正室・濃姫様付きの侍女で、ふみと申します」


「おふみ殿……」


 初めて知った女名を噛み締めるように庄九郎は呼んだ。ふみもまた、庄九郎の名を深く深く呼び続けていた。


      *


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