忍ぶれど……【弐壱】


      *


 洗濯物を持って廊を歩いていると、背後から聞き覚えのある足音が響いて来た。

 いつもと違い、楚々としていない。荒々しく、今にも縁を踏み抜かんばかりの勢いだ。


「池田様――?」


 微笑を浮かべながらふみが振り返った次の瞬間、洗濯物が音を立てて足元に散らばった。


 腕を掴まれ、空き部屋に引きずり込まれると、畳に叩き伏せられる。


 女子と見間違みまごうほどの美貌――しかし、この力強さは、まぎれもなく男のそれだ。として対峙したとしても、容易には振りほどくことはできやしない。


「言え」


 庄九郎が低く唸った。首筋に、短刀が震えながら近づけられた。


「於泉達――俺の妹達を、どこに隠した」

「於泉様?」


 ふみの脳裡に鈴のような声が鳴り響いた。


 人懐こく愛らしい少女。城内でふみの姿を見つけると、さりげなく声を掛けてくれるようになった。


(私が怪我をさせたことも、気づかずに……)


 純真無垢な笑顔は、時世に似つかわしくないほど真っ白で、ふみには眩しすぎる。


 罪に濡れた夕顔は、清らかな白梅と同じ季節場所には立つことができない。


「於泉様に、何かあったのですか」

「とぼけるな!」


 庄九郎が貯まりかねたようにふみの胸倉を捻り上げた。


「お前が――お前が於泉を連れ去ったんだろう! この城内に、他にこんなことができる者はいない!」

「だから、何の話ですか!?」

「まだ――まだとぼけるつもりか!!?」


 苦しいほど締め上げられている。それなのに、痛みや息苦しさを感じているのは庄九郎の側にも見える。


「もういい、やめろ」


 庄九郎の細腕を掴んだのは森長可だった。長可は、庄九郎をふみの上から引きずり下ろした。


「庄九郎、おふみは関係ない」


「何でそう言い切れる!」


「おふみは、仕事中だったんだろ」


 長可は廊下に散らばる、敷布を拾って行った。褥に敷くもので、天気が良いので新しいのに取り換えたところだった。


「おふみが仕事をしていたのかどうかは、奥方様や各務野殿あたりに聞けば分かることだ。そうだろ」


 長可の問いかけに、ふみは必死で頭を縦に振った。

 ふみは朝餉を貰った後は、同僚と一緒に洗濯物をしたり、それ以外の時間は帰蝶の話し相手をしたりと、常に人が傍にいた。ふみが於泉と会っていないことは、長可が言う通り、各務野に聞けば分かることだった。


「そ……うか……」


 庄九郎が可哀そうなほど青ざめた。年相応の瞳は、不安げに揺れている。


 ふみは膝を突くと、庄九郎の顔を覗き込んだ。


「池田様、教えてください。於泉様に、何かあったのですか?」


 なるべく優しい声音を出すと、庄九郎はか細い声で「於泉がいなくなった」と告げた。


       *


 小屋の扉は、固く閉ざされている。表の側から、閂がされているのかもしれない。元々人通り自体が少ない場所ではあるので、叫んでも人は来ない。


 唯一ある窓も、於泉が柚乃を肩車したところで届かない場所にある。

 於泉は何気なく頭に触れ、溜息を吐いた。


(結布、落としちゃった……。若にいただいたものだったのに)


 ずっと前、幼い頃、奇妙丸がくれた京土産だった。


 奇妙丸にとっては、きっと思い出したくもない忌まわしい記憶が関係しているだろうから、於泉は最初、貰ってよいものか迷った。しかし、奇妙丸は「於泉に付けてほしい」と笑ってくれた。

 奇妙丸と、揃いの結布。奇妙丸は艶やかな緋色ひいろで、於泉は明るい唐紅からくれない

 於泉にとっては、大切なお守りだったのだが。


 窓をよじ登ろうかと試みたが、それも難しい。引っ掛かりがなく、壁に爪を突き立てても、爪が剥がれそうになって血が滲んで終わった。


 置いてある調度品もほとんどが壊れているので、登っただけで崩れ落ちてしまった。


 途方に暮れていると、扉がゆっくりと動いた。


 現れたのは、顔に布を巻いた男だった。


 男、と言っても於泉や柚乃とそれほど年が離れているわけではなさそうだ。背丈は奇妙丸とあまり変わりないし、目元も幼い。


(あの、目は……)


 於泉は柚乃の前に立ちはだかった。


「どなた、ですか」


 茶筅丸では、ない。茶筅丸とは瞳の色が違う。茶筅丸は、奇妙丸と同じ珊瑚の瞳をしている。しかし、対峙した相手は血の色にも似た、栗色だ。


「私怨はない」


 声はくぐもっていたが、奇妙丸と似ている気がした。


「安心致せ、殺しはしない。だが、少し痛い目に遭ってもらうだけだ」


 少年が短刀を取り出す。


 於泉は蔵の中を見渡した。武器になりそうなものは、欠けた高価な皿くらいである。これを割ったら父や兄の首が文字通り飛ぶことくらい明らかだったし、柚乃が「いけません」と考えを読んで制して来た。


「姫様」


 柚乃に腕を引っ張られた。倒れ込んだ隙に、きつく抱き締められた。


 甘い、優しい匂いがする。――どこかで憧れていた匂いだった。


「姫様のことは、私がお護り致します。ご安心を」


 於泉は柚乃の背に腕を回した。柚乃の肩は震えていたが、懸命に敵を睨み付けている。

 於泉とて気持ちは同じだった。柚乃のことを護りたかった。


「美しい主従じゃな。だが、儂は嘘は言わぬ。少し耐えてくれれば良い」


 男の背後に、もう1人いた。どうやら、家臣らしい。


 家臣の方が後ろ手に扉を閉め、中からも閂を掛けた。


 於泉は柚乃の腕の間から必死で相手を睨み付けた。


「殺しはせぬと言うておろう。そのような目をするな。髪を切るだけじゃ」


 よくもぬけぬけと言ったものだ。於泉は立ち上がって柚乃の手を引いた。扉のところにいるのは、少年と家臣だけ。その2人さえ突破できれば、どうにかなるかもしれない。


 懐に忍ばせているのは、櫛と、長可が「護身用に」と適当に調合(というほどでもない)した目潰しが入った袋くらいだ。実戦に使える代物ではないらしい。


(でも、柚乃のことは、守らなきゃ……)


 迫り来るのは、少年の家臣の方だった。「無駄な抵抗はするな」と、於泉に手を伸ばす。そのたびに柚乃が庇おうとして来た。


「姫様には、手出ししないでください! 代わりに、私が……!」


「ならん」


 家臣が口を開いた。一瞬触れた指先は、柚乃によって払い落とされた。

 決して乱暴な手付きなどではない。どこか庄九郎や奇妙丸に似通った、肉刺だらけの指だった。


「無礼者!!」


 柚乃の悲鳴にも似た威嚇が響き渡った。いつも穏やかな柚乃が、こんな声を出したのは初めてだった。


 一見淑やかな柚乃の威嚇には、於泉も相手方も怯んだ。


(不思議……)


 柚乃は初めて会った時、華美な小袖も打掛も身に着けていなかった。何カ月も髪を洗っておらず、化粧道具のひとつも持ち合わせていなかった。のに。


(すごく高貴な……どこぞの姫様みたい……)


 女の威嚇に怯んだことが面白くなかったのか、少年が顔に巻いた布越しにも分かるほど顔を真っ赤にした。


「この……ッ!」


 柚乃に向けて拳が振り上げられる。


「柚乃、息を止めて目を閉じて!!」


 柚乃の袖の下から、小袋を目いっぱい投げつけた。


      *



「ぎゃああああ!!」


 凄まじい悲鳴が響き渡る。


 肌に一瞬触れただけなのに、ひりつくように焼けた。うっかり空気と一緒に吸い込むと、於泉と柚乃の喉も焼け付いた。


(何これ……!)


 続けて、強い風とともに咳き込む音が二人分、そして同じく二人分、肉を打たれる音が響いた。


「よーし、ちゃんと持ち歩いてたんだな、偉いぞ!」


 頭をわしわしと乱暴に撫でられた。この掌は、


「勝蔵殿!」


 顔を上げようとすると、瞼を押さえられた。


「目、開けんな。マジで死ぬぞ。柚乃殿も」


 言われなくても分かっている。今、名前を呼んだときに口に入った粉末が喉を焼き付けている。声もろくに出せないまま、外に引きずり出された。

 その間、少年達が咽ている悲鳴が耳に響く。流石に罪悪感を覚えた。


      *


 長可に腕を引かれるようにしながら外に出ると、頭の上からいきなり水を浴びせられた。


「お前らの衣にも、粉末付いてるだろうからな」


 濡れた髪の隙間から、庄九郎とふみが咳き込んでいるのが見えた。長可は2人の頭にも容赦なく井戸水をぶちまけている。秋に井戸水は、寒い。


 長可は於泉の頭に手拭を被せると容赦なくがしがしと拭き始めた。


「安心しろ、於泉。お前の仇討ちは俺がしておいた。ボコボコにしといたし、男なら顔に巻いてあった布も引っぺがして粉塗りたくっといたからな」


 庄九郎とふみも噎せている。声を出そうとすると、ほとんど蚊が鳴いているような音しか出なかった。

 

「……勝蔵」


 庄九郎がかすれ気味の声で問い質した。


「あれ、何入ってたんだ……」


「胡椒と南蛮胡椒唐辛子をよーーーーくすり潰した」


 長可を覗く全員が引き攣った顔をした。


 胡椒はうどんを食べる時に使うが、分量を間違えれば口の中が痺れる。先日、鮎が掛ける量を間違えて涙目になっていた。


 そして、南蛮胡椒唐辛子――

 

 南蛮の僧侶達が種子島に持ち込んだものだ。触れた場所は焼けるように痛むこともあり、うっかり目に入ったりしたら目が焼ける。


「……力いっぱい投げつけちゃったけど……大丈夫かしら」


 於泉が途方にくれたように呟く。


「構いません」


 きっぱりと言い放ったのは柚乃だった。白粉が落ちた頬が赤い。


「もとはと言えば、姫様に無礼を働いた者どもが悪いのです。……それより姫様、お手が」


「あ」


 袋を握りつぶしたせいで、右の掌が少しだけ赤くなってヒリヒリとしている。帰ったら初瀬に頼んで薬を貰わなければならない。


 すると、長可が懐から手拭を取り出した。於泉の掌にくるくると巻き付けた。


「帰ったら薬塗ってやるよ。金山の方にいる商人に、いい薬貰ったんだ」


「薬嫌い」


「うるせえ」


 長可は於泉を軽々と俵担ぎにした。いくら暴れてもびくともしない。


「柚乃殿は於泉と一緒に来てもらうとして……庄九郎とおふみはどうする?」


「俺はまだ仕事中だ」


「私もです。局に戻って着替えてから戻ります」


「そうか、風邪引かないうちに着替えるんだぞ」


 誰のせいだ、と庄九郎が疲れたように項垂れた。


 長可は暴れる於泉を担ぎながら、元気よく城を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る