忍ぶれど……【弐拾】
*
――岐阜城下――
「なあ、お侍さん」
「いい加減に決めてくれないかね」
「待て、もう少しだ」
大柄な少年――長可は、じっと茶器を手に持っている。
買うか、買うまいか。
商人に告げられた値段は思った通り。買うか買わざるか、悩ましい線である。
「もうそろそろ、店仕舞いしたいんだけどねぇ」
「うるせえ。俺に命令するんじゃねぇ」
「……なんて人だ」
鋭い視線でねめつけ黙らせながら、長可は買うか買うまいか、目の前の茶器に語り掛けた。商人は、軽い気持ちでこの少年に「見て行かないか」と声を掛けたことを相当後悔している。
色艶、形、紋様。
金山や岐阜城下の武家屋敷に所有している茶器の中にも、こんな上等な品はない。
長可は財布の中身を確認し、そして――
「よっし。また来るわ!」
買わないのかよ、と商人が舌打ちした。
仕方がないのだ。奇妙丸のお膝元で強奪をするわけにはいかない。近くに知人がいないので金を借りることもできない。何より、趣味に関するものを値引いてもらってお情けで買うのも面白くない。気に入ったものは誰かの力を借りるのではなく、自分の力だけで手に入れたかった。
茶器の代わりに饅頭を1つ買って頬張る。小豆の香りが鼻を通り抜けた。
(於泉に買って行ったら喜ぶかな)
よく食べる幼馴染を思い浮かべ、ふっ、と笑みを浮かべる。もう1つ、と饅頭売りの女に声を掛けようとした時だった。
「勝蔵――!!」
「んが?」
饅頭を咥えたまま、後ろを振り返る。
周囲が
庄九郎は人にぶつかりそうになりながら長可に駆け寄った。息を切らし、額から汗を流していても、凛とした佇まいを保っている。流石は近習として、若殿にお仕えするだけはある。
「勝蔵、於泉を見ていないか」
「於泉?」
長可の声音が変わった。
「若のところじゃないのか」
「今日は、若は御用があるから、於泉は行かない。……これを見ろ」
渡されたのは、文だった――見慣れた於泉の字だ。
【若から文が届いたので、お屋敷の方にお邪魔して来ます。花押入りだから、きっと緊急だと思うので、急いで行って来ます。夕刻前には戻れるようにします】
若のお屋敷の方――奇妙丸の屋敷にいるとは言っていない。
夕刻前には戻れるようにする――夕刻前に戻れないのは、何かあったということ。
何より、奇妙丸は私用の文に花押を入れない。花押を入れる時は、信長の代理だったり、政務に関することだったりする時だけだ。
「於泉は、供を連れていたのか」
「一応。侍女の柚乃を一緒に連れて行ったそうだ」
「柚乃……殿」
長可の脳裡に、於泉の侍女の姿が思い浮かんだ。あの女人に於泉を庇うことは不可能だ。
背中に、つぅ、と冷たい汗が流れる。
「ったく! お前、妹甘やかし過ぎだ! あのじゃじゃ馬のこたぁ、柱にでも括り付けとけ!」
庄九郎を置いて行かんばかりの勢いで、長可は先を駆けて行った。
*
……きて。
起きて……く……さ……。
……め様。
「姫様」
聞き慣れた声に、於泉は目を覚ました。
「……ゆずの」
柚乃が泣きそうな顔で於泉の頬を両掌で包み込むと、堪り兼ねたように抱き締めて来た。
「姫様、良かった……」
「良くない」
於泉はぴしゃりと言い返す。
いつもきっちりと結わえてある柚乃の髪はほどけてぼさぼさになっている。元結を落としたのだろう。額の辺りは血が滲んでいた。
(若の名を騙った文が、ない)
懐に忍ばせた文が姿を消している。
奇妙丸の名を騙った文。
指定された蔵のところに進むと、背後から柚乃の悲鳴が聞こえた。振り返った時、立って居たのは、背の高い人間――顔を隠していたから正体は分からない――だった。
頭を強かに打たれ、それきり、記憶がない。
だが、岐阜の城は、奇妙丸達と一緒に一通り忍び歩いているから、地理は頭に入っている。
ここは、南野蔵だ。物も少なく、古い調度品が
柚乃は不安そうにこちらを見ている。だが、於泉と目が合うと「大丈夫ですよ」と気丈に微笑んで見せた。
きっと、こんなくだらないことを思いつくのは、茶筅丸に違いない。いつも「自分が織田家を継ぐ」と言って憚らない馬鹿者だ。失笑されているとも知らないで。
「姫様……」
柚乃が唇を噛み締め、柳眉を下げた。
「私がお傍に付いておりながら、お守りできず……申し訳ございません」
「何を言ってるの」於泉は頭を振った。「柚乃は悪くない」
奇妙丸を困らせる茶筅丸の横面を張ってやりたい。その思いで後先考えずに突撃した。挙句、柚乃のことまで巻き込んだ。
罰されるなら、於泉の方だ。
「父上に、きっと怒られるわ。だから柚乃、一緒に謝ってくれる?」
「ええ、勿論。……姫様のことは、何としてでも、必ず、お返しします」
柚乃は泣きそうな顔で、於泉の手を取った。祈るように、額まで持って行かれた。
「ひとまず、ここから脱出しなきゃね。あの
*
城内を駆け回り、於泉が行きそうな場所を探る。
縁の下に潜り込んで奇妙丸の部屋の辺りに耳を立ててみたが、於泉がいる気配はなかった。
「若に、直接お伺いしてみるか?」
「いや」
長可の提案を、庄九郎は辞した。
「若には、お知らせしたくない。余計なご心配は掛けたくないから」
そうは言っても、於泉の行く先を知っているとしたら、奇妙丸が1番詳しい気がした。ここしばらく、長可が岐阜を訪れる度、於泉はほとんどの時間を奇妙丸の傍で過ごしている。
於泉は、奇妙丸の隣にいるのが1番馴染む。まるで、生まれた時からそうなる
「……もしかしたら」
庄九郎が秀麗な顔を険しくした。
「あいつなら、知っているかもしれない」
「あいつ?」
長可が首を傾げている隙に、庄九郎が疾風のように駆け出した。長可が慌てて追い駆ける。
途中、すれ違った河尻秀隆から「走るな!」と叱られたので、長可は「すみませーん!」と、反省の色を乗せることなく、叫び返した。
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