戦国鬼 ―天下布武の子ども達―

水城 真以

第一部「花の芽吹き」

思ひ出乞ひわずらい【壱】


      *


 春の日差しを浴びながら、於泉はごろりと縁側に横になった。仰向けの姿勢で、顔だけ庭に向ける。この間、妹達とお茶を飲みながら花見をしたばかりだったのに、花びらはすっかりと散り、葉桜が混じるようになっていた。


於泉おせんどのー」


 べちんっ、という音とともに、顔面に小さな紅葉が叩き付けられる。瞼を開くと、悲鳴のような声が3つほど重なった。


「こら、千丸せんまる! いつのまにそちらへ!?」

「ならぬぞ、女人の顔を打つなどしては!」

「謝れ!」


「ああ、よいから、よいから」


 於泉は騒ぐ3人を代わる代わる撫で、叱られて泣き始める童を抱き上げた。


 この4人はそれぞれ、乱丸らんまる坊丸ぼうまる力丸りきまる千丸せんまると言う。武家屋敷が隣同士の幼馴染・森勝蔵長可もりしょうぞうながよしの弟達であった。


 本当は長可が今日1日稽古をつけてくれる約束であったらしいが、急遽城に呼び出されたため、流れてしまったようだ。


 ――なら、私と一緒に若のところに行く?


 その誘いには一も二もなく少年達は乗った。きちんと兄弟の母には許可を経て、こうして奇妙丸の屋敷に辿り着いたわけだが、肝心の奇妙丸も不在だった。通りがかった小姓に問うと、どうやら部屋の主は信長に呼び出されているらしい。この世の終わりのような顔をして父の居室に向かう若き主君の姿が目に浮かんだ。


 元服前とはいえ、奇妙丸は織田家の嫡子。他の兄弟とは一線を画した教育を受けている。近頃は先触れをしていても、放っておかれることの方が多いくらいだ。


「待ちくたびれた?」


 問い掛けると、千丸以外は首を横に振った。千丸は於泉の胸の中で船を漕ぎ始めていた。


「よい子達ね、皆。私が三人と同じくらいの頃など、もっと我儘を言っていたと思うけれど」


 放っておかれれば、構えと駄々を捏ねた。気に入らないことがあれば暴れ回っていた。思い返せば、当時の精神年齢はこの子供達よりも遥かに幼いかもしれない。


「於泉殿が若と出会うたのは、兄上が若と出会うたよりも先なのでしたっけ?」


 うん、と於泉は頷いた。元々父の紹介で於泉と兄の元助もとすけが奇妙丸と親しくなったところへ、長可が後から合流した形だった。


 そうか、出会ってからもうそんなに経つのか。於泉は昔を懐かしむように目を細めた。


   *



 その人を初めて見た時、於泉はあんぐりと口を開けたまま、言葉を発することができなかった。絵に描いたような、芸術作品と呼んで遜色ない少年がそこにいたからだ。


 波打つ黒髪は朱の元結で結われ、夏の川面のように優雅だ。明るい瞳は火の光に潤み、涼やかできりりと引き締まっている。真白い肌は絹のように柔らかそうで、唇は紅を塗っているわけではないだろうに、艶やかに艶めいている。


「若様、綺麗……」


 溜息を吐くと、後ろから後頭部を叩かれた。兄である勝九郎しょうくろう――後の元助――である。


「無礼だぞ、於泉っ。きちんと挨拶しろっ」


 兄に促され、於泉は慌てて居住まいを正した。


「於泉、か」


 奇妙丸の声が響く。まるで鶯のように品のある声だった。


「よき名じゃ」


 1つ上の勝九郎とも、弟の古新達ともまるで違う。4歳になる於泉にとっては、初めて見る「年上の殿方」であった。


 奇妙丸は於泉より3つ上で、今年7歳になる。奇妙丸は上座から降り、於泉と勝九郎の前に立った。勝九郎が居住まいを正すのが視線の端に入り込む。於泉の目の前に芸術作品が訪れた。

 こんなに美しい人がこの世に存在するだなんて、思いもしなかった。


「綺麗」


 思わず2度目の称賛が漏れた。奇妙丸の頬がほんのりと色づく。まるで梅が零れるような表情に、於泉はますます高揚した。


 奇妙丸はわずかに目を反らしてから、於泉をもう一度瞳に映した。


「父上達が、よき話し相手になるだろうとそなたらを呼んでいただいたもの、儂はそなたらのことを何も知らぬ。そなた達が好きなものや嫌いなもの……何でもよい。話して聞かせておくれ」


 於泉は表情を輝かせた。勝九郎はおずおずと、於泉は堂々と話をした。


 最近飼い始めた老犬・駒若丸こまわかまるのこと。先月、妹が生まれたこと。父のこと、母のこと、年の離れた異母姉のこと……。


 今にして思うと、要点はまとまっていない上に、何の面白みもない話であったに違いない。ぼんやりとだが、途中から現実だか空想だかが混じった話になっていた気もする。しかし、奇妙丸は笑ったり聞くのを放棄したりはしなかった。


 つまらぬ話だと切り捨てることなく、真剣に、興味深そうに聞いてくれた。うるさいだけの古新達とも、すぐに怒る勝九郎とも違う。大人で、何て素敵な人なのだろう――於泉の心に淡く灯火を与え始めた。


 男である勝九郎だけでなく、なぜ傍仕えになる予定もない於泉までも連れてこられたのか。幼子達には、その理由も大人達の考えも理解できなかったが、当然のことなのかもしれない。


 ただ、年の近い話し相手ができたことは奇妙丸にとっては喜ばしいことだったらしく、勝九郎と於泉は、自由に屋敷へ出入りすることを許されたのだった。


      *


 腕の中の千丸が寝息を立てる。於泉は被いて来た小袖引き寄せると、千丸の肩に包むようにして掛けてやった。


「それから、毎日のようにいらっしゃるのですか」


「そう。帰り際、『またいつでも来い』と言ってくださったから。若は織田の若君で、嫡男にあらせられて……。それなのに、偉ぶったところは何一つないの。だから、すぐに好きになったわ」


 無論、奇妙丸は織田家の嫡子。後に日ノ本を背負って立つ武将になる。


 必要においては敢えて偉ぶった態度を示さなければならないこともあるだろうが、そのくらいで於泉が奇妙丸に苦手意識を持たなければならない理由もなかった。

 それは父である恒興もしていることだったからだ。


「於泉殿にとっての初恋の君は、若なのですか」


「初恋の君――ねぇ」


 於泉は苦笑気味に坊丸を見た。


 初恋の君、ではないと思う。残念ながら。


 奇妙丸は兄とは違う存在で、於泉にとってはかけがえのない相手だ。命を賭してもいいくらいに。しかし、それが恋慕の情なのかと問われると、きっと違う。


 ひょっとしたらそんな相手になった可能性も、否定はできない。しかし、それ以上に於泉にとって奇妙丸と過ごす時間は楽しかったのだ。


 於泉が飼い犬や市井の話、池田屋敷の話をする代わりに、奇妙丸は色々なことを教えてくれた。


 花の名前や絵の描き方、手習いなどなど……。


 急に怒ったりする勝九郎や、於泉がすることに「はしたない」と顔を顰める母とは違う。奇妙丸は簡単に怒鳴ることはしないし、叩いて来ることもない。


 於泉が奇妙丸に懐いて、一緒に過ごす時間を増やすのも自然の流れではあった。


 ――そう、あの日までは。


 今思い出しても苦々しい。於泉は、あの日現れたの横顔を思い出し、顰め面をした。

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