思ひ出乞ひわずらい【弐】
その日、いつものように、於泉は勝九郎とともに奇妙丸の部屋へ向かっていた。
その道中でも、くどくどと勝九郎の説教は留まるところを知らない。
「よいか、また我儘を言うて若を困らせてはならんぞ」
「困らせてなんかないもん」於泉は、説教して来る兄に頬を膨らませた。
奇妙丸は於泉のことを叩いたりしない。何をしても、「於泉はいつも楽しそうじゃな」と、笑って頭を撫でてくれる。
絵を描くことが好きだと言えば、次に来る時には綺麗な絵筆が揃えられている。
南蛮菓子に興味を持てば、自分の分まで分けて食べさせてくれる。
手習いも、兄や母に教わるよりもずっと丁寧に優しく教えてくれる。お陰で、以前は逃げ回っては乳母や侍女達に捕まっていた手習いの時間も、厭ではなくなっていた。
「若は、困ってなどないもの。好きなことは何でもしてよいぞ、といってくださるもの。泉の我儘なら大歓迎だって」
「そうは言っても、若は主君なんだぞ。お前の傍若無人な振る舞いは、池田家にはまずいことだ」
「何が、どうまずいって言うの」
問いかけても、勝九郎は要領を得ない答えしか言わない。勝九郎自身、「まずいこと」の正体は分かっていないのだろう。所詮、父や母に言われたから言っているだけなのだ。
ふん、と於泉は胸を反らした。勝九郎は考え過ぎなのだ。奇妙丸は於泉が甘えたからと言って、困ったりしない。迷惑にも思わない。
したいことがあれば申せと、そう言ったの奇妙丸だ。だから勝九郎を相手にした時と同じく、遠慮なんてしない。していいと言われたら従う。主命に従うのが臣下の心得ならば、遠慮をすることの方が失礼ではないか。
*
勝九郎の真似をして、戸の前に座する。これだけはきちんとしろ、と勝九郎に頭を押さえつけられたからするようになった。しかし、挨拶がきちんとできると奇妙丸はとても褒めてくれるので、於泉もいつしか喜んでするようになった。
入室の許可を経て、於泉は駆け出し――固まった。そこにいたのは、奇妙丸だけではなかったからだ。
(誰……?)
勝九郎よりも1つか2つ年上だろうか。
少年が座している。背が高く、黒飛色の両目がぎょろりと光を放っている。眉が太く、唇が引き結ばれていた。顔立ちがきつく、怖い。
それが於泉の、森勝蔵と初めて垣間見た時に抱いた第一印象であった。
*
「へえ、それで勝蔵兄上も含めて、一緒に遊ぶようになったのですか」
力丸が目を輝かせる。千丸がずり落ちた。抱き直しながら、於泉は口元に笑みを湛えた。
「わたしが勝蔵殿とまともに言葉を交わすようになったのは、もう少しずっと後のことよ」
しれっと言い放つと、乱丸達は「えっ」と驚いたように目を丸くした。弟達の方はそれほど長可と似ている、と感じたことはない。しかし、こうして見ると、目元や口元などは、意外と似ている。
勝九郎と於泉があまり似ていない兄妹だからか、似通った兄妹というのは不思議な存在に感じた。
「わたし――勝蔵殿のこと、死んでしまえと思うくらいには大嫌いだったから、あの時」
遠くで、縁を踏み抜く気配がした。千丸が目を覚まし、ふにゅふにゅと顔を顰める。三丸達がどうしたんだろうと騒ぎだした。
「大丈夫よ。人手はあるわ。誰かしら修理に行くわよ」
於泉は、四丸全員に言い聞かせた。
*
於泉は頬を膨らませた。
(つまんない)
せっせと筆を動かしながら、金魚鉢を覗き込む。
庭を走り回る少年達の声が不快に耳に絡みついた。庭を見やると、勝蔵、勝九郎、そして奇妙丸の3人が蹴鞠に興じている。
「つまんない」
今度は、はっきりと口に出して答えた。しかし、誰も答えてはくれない。つん、と鼻の奥が痛んだ。
蹴鞠は、袴姿だからできる芸当だ。やり方は知っていたとしても、於泉は袴を履いていないから参加できない。
最初に「蹴鞠をしよう」と声を上げたのは勝蔵だった。
於泉も参加しようとしたら、勝九郎から「だめだ」と禁止されたのだった。
「於泉はだめだ。そんな恰好で蹴鞠なんかできるわけない」
「できるもん! まくるか、若の袴を借りれば……」
「図々しいことを言うな! まくろうとするな、はしたない! 若から戴いた筆があるだろう。大人しく絵でも描いていろ」
奇妙丸は哀れに思ったのか、「
丸い鉢の中で、朱色の尾びれがゆらゆらと揺蕩う。水草を揺らしながら、陽光を反射させて輝いた。
(綺麗、だけど……)
於泉は蘇芳の双眸を滲ませた。
金魚が見たいわけではない。絵筆が欲しいわけでもない。於泉は、奇妙丸と一緒にいたいだけだった。
奇妙丸に会うと、心が躍った。何でもないことではしゃぐことができたし、いつもなら色が抜けていた世界も、奇妙丸が「よかったな」と褒めてくれれば、鮮やかになった。
それなのに、近頃は奇妙丸の部屋に来ても、色は抜けたまま、染まることはなかった。
南蛮の珍しい菓子を食べたり、筆を貰えたりはする。しかし、そこに奇妙丸からの関心はない。
奇妙丸は、部屋の中で於泉の話を聞くことよりも楽しいことができてしまっていた。
(全部、あいつのせいだ)
――森勝蔵。
こいつが来てから、於泉はつまらない。
勝蔵が提案する遊びは、いつだって於泉が混じれないものばかりだ。
当初、勝九郎は外遊びに苦い顔をしていた。奇妙丸の顔に傷がついたら大変だからだ。
しかし、勝蔵はそんなことなどお構いなしに、奇妙丸を庭へ引っ張って行った。
平気で奇妙丸を追い回しては報せ、鞠を奇妙丸の顔に向かって蹴り上げ、木の上に追い立てる。
最近では稽古の相手にまで奇妙丸を呼び出そうとする始末だ。
「だって、痛いかどうかなんて、転ばなきゃ分かりませんよ? 痛いのが厭なら、転ばなきゃいいだけですよ」
奇妙丸は驚いたように目を見開いた。白い肌は紅潮し、珊瑚色が綻んだように丸みを帯びた。
「うん……そうじゃな」
「そうですよ。将になられる御方ならば、痛みというものを知っておかねばなりません!」
勝蔵の尤もらしい御託に呆れる於泉に対し、奇妙丸はますます笑う。
勝九郎や於泉が止めても構うことなく、奇妙丸は勝蔵の誘いに乗った。
夕刻前、傷だらけの顔で出したのは、勝蔵に屋敷へ出入りするのを禁ずる――ではなく、いつでも来い、毎日来い、という許しだった。
(あんな人が、わたし達と同じ待遇だなんて……!)
勝蔵が来るようになってからというもの、奇妙丸の美しい顔には生傷が耐えない。
勝蔵が平気で鞠をぶつけて鼻血を出させたり、木刀で殴り付けたり、木に登らせたりするからだ。
常に侍女達が薬を持って駆けつけて、勝蔵の傅役である各務兵庫などが謝罪に来て回っているのだが、奇妙丸は咎める気配がない。それどころか、
「また明日な」
と、次の来訪を取り付けるほどだ。
最初は苦言を呈していた勝九郎も、本心では混ざりたかったのだろう。
自然と三人で(時々小姓や子飼いも交えながら)、行動を共にするようになっていた。
於泉だけ、女子だからというだけで、部屋で大人しくさせられる。
最初は気を使ったつもりなのか、勝蔵が「お前もやるか」と誘って来たが、於泉は反応を示さなかった。
勝蔵のせいで奇妙丸と遊べなくなったのだ。その相手に気を使われることが於泉の矜持を傷つけた。
勝蔵も特に執着することもなく、あっさりと「そうか」と言うと、庭へ戻って行った。以来、遠目にこちらを見て来ることはあれど、誘って来ることはない。
(嫌い、嫌い、嫌い! 勝蔵なんか、大嫌い!!)
腹いせのように筆を動かしていると、急に手元が陰った。
顔を上げると、勝蔵が於泉の方を見下ろしていた。
「へえ」
じっと見下ろされると、怖い。
「うまいんだな」
なんのことかと訝しがると、勝蔵が紙を指さした。
鉢の中で泳ぐ、金魚たち。
以前から絵だけはうまいと、乳母や侍女達から賞賛されていた。あまり於泉に関心を示してくれない母親ですら、於泉の絵だけは認めてくれている。
「……別に、普通」
於泉はぷいと顔を反らした。勝蔵に褒められても、虱と同じくらい嬉しくない。
勝蔵が現れる前は、奇妙丸と勝九郎と3人で絵を描いていた。勝蔵が来てからは、奇妙丸と勝九郎は筆を取ることがなくなった。
於泉を縁側に座らせて、男達は木登りや剣の打ち合いばかりだ。
参加したいと言っても、「女子だからだめだ」と勝九郎は言い、奇妙丸も「於泉には早い」と決めつける。勝蔵は何も言って来ないが、内心では「女はすっこんでいろ」と思っているに決まっていた。
「於泉」
名を呼ばれ、於泉は目を怒らせた。勝蔵に気安く呼ばれる謂れなどない。
勝蔵は於泉の怒りに気が付くこともなく、輿に下げた袋を探っていた。
「いいもの、食わせてやる。口を開けろ。目を閉じて」
「いいもの?」
「美味いぞ」
美味しいもの、という誘いに、於泉は目を煌めかせた。
ちょうど小腹は好いている刻限であった。勝蔵は気に入らないが、食べ物に罪はない。
素直に口を開けると、棒状のものが押し込まれた。
なにこれ。苦いし、何か生臭い……? ていうか、何か、四つくらい突起? が付いているような……。
恐る恐る目を開ける。於泉は音を立てて固まった。
「美味いだろ?」
あの時の勝蔵の笑顔は、何度思い出しても許し難い。後年になっても、怒りがふつふつと湧き上がる。
真っ黒になっていても分かる。驚いて思わず吐き出した。吐き出した表紙に、細い脚がぽきりと音を立てて折れた。これだけ黒くなっていても、つぶらな瞳は健在だ。
――イモリの黒焼き
「兄上ええええええ」
於泉は素足のまま、井戸の傍で奇妙丸と話している勝九郎に飛び付いた。
「ど、どうした、於泉?」
ぎゃんぎゃん声を上げて泣く。当時の於泉は、奇妙丸に会うため以外に外に出たこともなかった。イモリなんて、侍女や乳母がおふざけ半分に描いてくれたものや、弟達が捕まえて来たのを籠に入った状態でしか見たこともない。
それすら気持ち悪いと言うのに、意地悪で食べさせるなんて!
元々好きではなかった勝蔵のことがそれ以来、心の底から大嫌いになった。以後、於泉の脚は自然と奇妙丸の部屋から遠のいてしまったが、仕方のないことである。
*
乱丸は姿勢を正し、於泉に向かって深々と頭を下げた。
「……今更ではございまするが、兄の無礼、深くお詫びいたしまする」
坊丸と力丸も習って、ぺこりと頭を下げた。
「別に、あなた達に謝っていただくことじゃないよ?」
今でも爬虫類はあまり得意ではない。見ただけで背筋が凍り付きそうになる。原型が分からないほどすりつぶしたものとあらば、熱を出した時であればなんとか飲めるのだが。
あの後、可成に連れられ、幾度か長可が池田屋敷に訪れたことは知っている。
しかし、いつもなら於泉の全面的な味方になる恒興すらも、「いい経験だ」なんて笑っていた。
於泉は勝蔵の顔など二度と見たくなかったので、会おうともしなかった。
しかし、勝蔵は於泉が思うよりもはるかに面の皮が厚かった。勝九郎を訪ねて、今度は池田屋敷にまでも行き来するようになったのである。
「しかし、何故於泉殿はまた若のお屋敷を出入りなさるように? なったんですか?」
乱丸達の疑問は、もっともである。
勝蔵が大嫌いだと思ったのであって、奇妙丸のことが嫌いになったわけではなかった。あの後も勝九郎を通じて「来ないのか」と問う文は幾度か届けられていた。
「まあ、でも……ね」
ふと思い出されるのは、決して明るくはない記憶だ。乱丸はともかく、坊丸と力丸に聞かせるのは少々憚られる。
「色々あったの」
不満の声は出たが、曖昧に微笑んで誤魔化す。それ以上は教えない、という意味も込めて。
*
奇妙丸の部屋に通わなくなってから、早くも3年が経とうとしていた。於泉は7歳になっていた。
奇妙丸と遊んだのだって、数えてみればたった一年足らずのことだった。
その頃には他に弟妹が生まれたので母の目を盗んで世話をしたり、前田家の娘達と遊んだりするのも楽しくなっていた。
特にすぐ下の妹の
奇妙丸のことを思い出せば、胸が痛むこともある。懐かしくは、思う。しかし、イモリの黒焼きを思い出すと吐き気をもよおしてしまい、それどころではなかったのだ。
結局奇妙丸からの文には当たり障りのない返事しか出さずに、ずるずると時間ばかりが過ぎていた。
◇◆◇
侍女を連れて庭にいると、出掛けていた勝九郎から紙を渡された。表に書かれていたのは、懐かしい字。
於泉があまりにも望んだ返事を出さなかったので、2、3日に一度は届いていた文は次第に頻度が減り、今ではほとんど届かなくなっていたのに。
「……行かない」
於泉はぷいと顔をずらし、伐ったばかりの梅の枝を侍女が差し出す紙に乗せた。
於泉は春に生まれたという。
幼い頃は今とは想像もつかないほど体が弱く、母方の実家で、家族とは離れて暮らしていた。
やっと池田屋敷に呼ばれた時に、見せられたのが梅の木だった。於泉が生まれた時に大喜びした恒興が植えさせたのだと言う。
白梅も紅梅も、毎年美しく花を咲かせていた。
「だめだ。厭だと言っても連れて行く。若がお前に用があると仰せだ」
「いや」
於泉は頑なに拒絶した。
於泉がひとりぼっちでも放って置いたくせに、今更を言うのか。於泉に本当に来てほしいと思っているなら、あんなひどい態度を取るはずがない。
何より、イモリをまた食わされるのなんてごめんだった。
「勝蔵のいない時がよいなら、そのように調整するから」
於泉が行きたくない理由を知っているくせに、勝九郎は意地でも連れて行こうとする。
(何故、泉が我儘を言っているように言われねばならないの)
あんなひどい目に遭ったのを目の前で見ていたくせに、勝蔵と親しくしている勝九郎も、可成と親しい恒興も気に入らなかった。
勝蔵と、平気で仲良くする奇妙丸もひどい。
「若が、いなくなると言ってもか」
「え?」
思っても見ない言葉に、於泉は目を見開いた。頭が真っ白になった。
「若……養子に行くの?」
怯える於泉に対し、違う違う、と勝九郎は頭を振った。
「今度、上様が上洛なさる。それに同行なさるそうだ」
「上洛……? どうして?」
「さあ。前将軍の弟君である義明公が若の顔を一目見たいと仰っていて……。まあ、大声では言えないがお忍びなんだって。秋には戻られるだろうと仰せだったが」
「秋まで……」
於泉は渡された文を眺め、胸が締め付けられた。
3年もの間、何という不義理をしてしまったのだろう。後悔の二文字が胸を締め付けた。
京までの道のりは、安全とは言い難い。そうでなくとも、奇妙丸の父・信長は内にも外にも敵が多いと聞く。もしも奇妙丸が巻き込まれてしまったら――。
「明日! 明日、泉も行く。若に会いに」
「そうか」勝九郎はほっ、と息を吐いた。「勝蔵には夕刻は屋敷に近付かぬよう頼んでおく。文を読んでおけよ」
勝九郎を見送りがてら、縁側に出る。於泉の姿を見ると、駒若丸が尻尾を振った。
そういえば、奇妙丸いつか駒若丸に会わせてあげると約束をしたのに、一度も会わせたことはなかった。
「……駒若丸、動かないでよ」
於泉は縁側に絵を描く用意を整えた。桃色の舌が揺れ動く駒若丸の顔をじっと見つめる。
丸くて潰れ気味の鼻筋。ぴんと立った耳と、切れ長の目。真っ直ぐに伸びた尻尾。柔らかい毛皮に硬い身体。白い体毛。
流石に奇妙丸の屋敷に、駒若丸を連れて行ってあげることはできない。以前駒若丸を連れて行くと言い、勝九郎からこっ酷く叱られたことがあった。だが、絵なら届けられる。
【於泉へ
今度、京に上洛することになった。土産を買うて参る故、何が欲しいか考えておいてほしい。――奇妙】
*
翌日、昼過ぎ。
勝九郎に伴われ、於泉は騒ぎ立てる鼓動を押さえつけながら、奇妙丸の屋敷を訪れた。
怒鳴られるのも覚悟で現れた於泉に対し、奇妙丸は優しく目を細めただけだった。
たった3年――しかし、それは思ったよりもずっと長い月日であったのだということを思い出させられた。
奇妙丸は、また一段と綺麗になっていた。殿方に言うのはおかしいと笑われそうだが、美しさが日に日に増しているのだと思う。
優雅に波打つ、黒曜のような髪。
凛々しさを増した珊瑚のような双眸。
まだ10歳のはずなのに、ずっと大人びて見えた。
「若……」
呼びかけると、奇妙丸ははっとしたように於泉を傍に呼び寄せた。
「左様じゃ。奇妙丸じゃ、於泉。……随分、背が伸びたのではないか?」
於泉は頬をうっすらと赤らめた。
以前は一切感じなかった、友情とは別の気持ちが芽吹こうとしている気がした。
「私は、外にて待ちます。半刻ほどしましたら、於泉のことを迎えに参ります」
(嘘でしょう!?)
於泉は目を見開いたが、勝九郎はあっさりと部屋を辞した。てっきり一緒にいてくれるものだと思っていたので、兄を恨みたい気持ちでいっぱいだった。
「於泉、もう少し近くへおいで」
久しぶりに会った奇妙丸の声音は、相変わらず優しい。しかし、同時に知らない相手から与えられる優しさにも、よく知った相手の優しさにも、似ていた。
「於泉、おいで」
再び奇妙丸に手招きされ、於泉は荷物を持って立ち上がった。奇妙丸も上座から降り、於泉の傍に近づいた。
「本当に、大きゅうなったな、於泉。髪も、随分伸びたのう」
「子供扱い、なさらないでください」
於泉は頬を膨らませた。こんなことを言って来る奇妙丸だって、人を子ども扱いできるほど大人でもない。
髪が伸びたと言っても、奇妙丸ほど綺麗な黒髪ではない。
同じ癖毛なのに、偉い違い様だ。
奇妙丸の髪には、艶がある。於泉の場合は、梳いても梳いても、うねった蛇のような髪だ。
それなのに、
「綺麗になったな」
と、奇妙丸は褒めてくれる。照れくさくて、こそばゆくて、於泉は目を反らしたかった。
「上洛なさるって、本当?」
「ああ。次期将軍――義明殿とお会いする。儂にお会いしてみたいと仰せでな。義父上とともに行って参る」
奇妙丸の表情が凛々しさを増した。
「織田家の嫡子として、恥ずることなきよう努めねばならない」
「若なら、大丈夫だよ」
於泉はきっぱりと断言した。
「若は、いつも一所懸命な御方だもの。泉は知ってます。若が、努力されているのを」
「於泉が、そう言うてくれるのならば、心強い。心配ないな」
奇妙丸が笑うと、嬉しい。勝九郎と一緒に絵を描くのと同じくらいに。
「……若」
於泉は恐る恐る尋ねた。
「京からお戻りになられたら、また、泉と一緒に絵を描いてくれますか?」
一人だけ外遊びに混ぜてもらえなかったのが寂しかったのだと、今更ながら白状する。
すると、奇妙丸も「すまぬ」と詫びて頭を撫でてくれた。
「寂しい思いをさせたな。……お前になら、何をしても平気だろうと驕ってしもうた。すまなんだな」
この掌がたまらなく好きだ。於泉はいいよ、と笑って見せた。
奇妙丸の笑顔が見られたから、それだけで充分だ。
「見て。駒若丸、描いて来たの。若に差し上げたくて」
持って来た紙を広げる。梅の花びらが舞う中を駒若丸が駆け回っていた。
奇妙丸は微笑みを浮かべ、その絵を大切そうに受け取った。
「寂しくなったら、京でもそれを見て。京から戻って来たら、駒若丸を連れて来てあげるから」
「ありがとう、於泉」
奇妙丸の掌がふわふわと揺れる髪に入り込む。於泉は目を細めた。
奇妙丸の首の後ろで、深紅の布が蝶のように揺れていた。
「京で土産を買うて参る。何がいい?」
「えっとね……髪を結うものが欲しい。今使っている元結が、だいぶ古くなってしまって……若と同じのがいい。それ、すごく素敵」
「相分かった。見繕って来る。この絵の礼も、何か買うて来る」
「えー、ひとつでいいよぉ」
声を立てて笑ったのは、ひどく久しぶりの気がした。
勝蔵がいない時間帯を狙ってまた来ようと思った。勝蔵さえいなければ、奇妙丸に会うのが厭なわけではないのだ。その証拠に、今はとても幸せな時間であった。
*
子供達のはしゃぐ声音に、信長は眉を潜めた。この方角は――奇妙丸の部屋の方角である。
夫の視線に気が付いたのか、帰蝶は侍女に目をやった。
「よい」
止めに行かせようとしたのを制する。
「子とは、ああして騒ぎ立てるもの。その程度で儂も腹を立てたりは、せぬ」
「左様でございますか」
ならばよいのだと、帰蝶は息を吐いた。短気なのか懐が広いのか、分からない。しかし、気に障ったわけではないならいい。
とはいえ、奇妙丸にはもう少し次は静かにするように、と伝えた方がいいかもしれない。
「誰ぞ来ておるのか」
倒れこんできた夫の頭を膝に受け止め、額を撫でる。侍女を下がらせながら、帰蝶は答えた。
「勝三殿の御子が来ているようです」
「勝三の? 勝九郎か」
「ええ。勝九郎殿と、妹君が」
「妹? ……鮎、だったか」
以前、「子が生まれました」と報告して来たことがある。ちょうど、夏の時だ。夕餉の最中に言われたので「鮎と付けろ」と命じたのを思い出した。
「いえ、於鮎殿ではございません。一の姫の方です」
「一の姫? いや、勝三の――ああ、そうか一の姫か」
帰蝶は夫を軽く睨み付けた。また何か、よからぬことを考えているのだろうか。
「殿。……奇妙丸殿を必要以上に虐めることは許しませぬぞ」
信長は返事をしない。帰蝶の言葉など、まるで届いていないかのように。
帰蝶にとって、奇妙丸と血の繋がりはない。しかし、手元に置いて育てた大切な子であることには変わらない。
(奇妙丸……)
これから起こりうるやもしれぬ厭な予感を身に浴び、帰蝶は打掛の下、そっと拳を握り締めた。
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