思ひ出乞ひわずらい【参】

(厭だ、厭だ、厭だ……)


 身体中を、見知らぬ掌が這い回る。


(気持ち悪い。痛い。苦しい。助けて)


 悲鳴にもならない吐息が漏れると、ぬるりとした掌に口を押さえ付けられた。「誰にも言うてはならん」と、気色の悪い声が耳朶で囁く。


「お主の父から許可はいただいてる。誰も助けやら来いひん」


 外にいる侍女や、見知った家臣、小姓達に目で助けを求める。すると、ぷいと目を反らされた。


(ああ、そうか……)


 耳朶を這い回る舌に、とうとう震えが止まった。身勝手に動き出す男さえも、最早どうでもよいと思えた。


 抵抗するのを辞めたことが、受け入れたと思われたのだろうか。生臭い吐息が勝手に動き回り始める。


 視界の端に、絵が映った。

 零れる梅の中を、走り回る犬がこちらを見ている。

 この絵をくれた少女に似合うだろう品も用意した、というのに。


(笑って。唄って。声を聞かせて。俺が聞きたいのは、ナメクジのような声じゃない。生臭い吐息じゃない。俺が聞きたいのは、鈴の音が転がるような声だ)


 こんな目に遭うと分かっていたら、もっと大切にした。話を聞いてやったし、菓子を一緒に食べたし、無理にでも城に呼び寄せたのに。


 声を、もっと聞きたかった。


 もっと話してみたかった。


 あの子と、もっと――。


 咲きかけたかもしれない想いがあった。きっとその想いは、大層美しい花になったかもしれないのに――咲くことすら許されなかった。


 この穢れた身体では、白い梅に触れることなど、赦されない。


 蕾のまま落ちた時、初めてそこに花の息吹があったかもしれないことを知った。


      *


 秋の風が吹く。於泉は頬を擽る髪の毛を押さえ付けた。頬の上で結った物忌みが顔を悪戯小僧のように弄繰り回す。


 足元を駒若丸が駆け回り、於泉の膝に纏わりつく。抱きとめると、駒若丸の前足が泥だらけのせいで、裳袴までもが茶色くなった。後で乳母達に叱られるに違いない。

 しかし、そんな小言もどうでもいい。於泉の気持ちは別のところにあった。


「……来ないなぁ」


 京に発って十日目に、一度だけ文が来た。

 恒興に聞いたところ、ちょうど京に入ったであろう日数らしい。

 語る恒興の顔は青ざめているようだった。心配していると、勝九郎が後でこっそり教えてくれた。


 以前、信長は前将軍・足利義輝に謁見するため、京に上ったことがある。その際、美濃国の斎藤義龍さいとうよしたつが刺客を放ち、信長を暗殺しようとしたと言う。

 恒興はその場面を一部始終目撃していたため、今回も同じ懸念をしているらしい。


「心配は要らないぞ、於泉」

 勝九郎は於泉の頭を撫でた。

「此度は、前田様や柴田様方も同行されておる。何も恐れることはない。人の数も、以前上洛された時より増えておるしな」


 此度の上洛は、暗殺された前将軍の弟を新たな将軍に擁立させるための画策だと言う。少なくとも正式に将軍の地位を継がせるにはあと数年ほど時間がかかるだろうが、もしその擁立に携わることができれば、織田が実質天下を獲るのも夢物語ではなくなる。


 表立った御目通りではないのに奇妙丸を連れて行ったのも、そういった「おとなのじじょう」が絡んでいるらしい。


「すごいねぇ、若は」


 駒若丸の顔を勢いよく撫ぜる。老犬だが、子犬のように尻尾を振った。


「御屋形様がお連れしたということは、それだけ若が期待されておるということでしょ?」


「当たり前だ」


 勝九郎が胸を反らした。


 上洛に同行させられるのは、信長が奇妙丸への期待を強めている証だ。奇妙丸は茶筅丸ら弟達のような雑務も行わない。当主として必要なことを学ぶために、常に一人だけ優遇された生活を送っている。


「早く、戻って来ないかなぁ、若」


 髪を結う紐を買って来てくれると、奇妙丸は約束してくれた。本当は、そんなものは要らない。


 奇妙丸と、勝九郎と、3人でまた遊べればそれでいいのだ。


「おーい、勝九郎」


 垣根越しに届いた声に於泉は眦を釣り上げた。きゅん、と駒若丸が鼻を鳴らす。

 正直、顔を見るのも厭だったので、勝九郎が向かった先に視線は寄越さない。


 ――森勝蔵。


 相変わらず勝九郎とつるんでいる、隣家の次男坊。


 以前、「いいもの」と嘯いてイモリの黒焼きを食べさせられたことを、於泉は絶対に許さない。勝蔵の顔を見るだけで、声を聞くだけで、あの時の気色悪さを思い出す。

 あの後何度か謝罪を申し込まれたが、未だに頑なに顔を合わせることをしていない。


 勝九郎は「いい加減許してやれ」と笑うが、於泉にとっては笑いごとではない。大事だ。


「いいもん」於泉は駒若丸の毛皮に顔を埋めた。


 勝蔵と仲良くせずとも、奇妙丸とは親しくできる。絵を描いたら褒めてくれる掌も、微笑むたびにできる笑窪も、於泉にとっては一番大切なものなのだから。


(若、京土産など要らない。だから、早く、帰って来て……)


      *


 奇妙丸が帰って来た、という報せを受け取ったのは、雪が降り始める前だった。


 恒興の言葉を受けるなり、於泉は声を上げて喜びを露わにした。

 うるさい、と注意する勝九郎も、頬が緩んでいる。隣の森屋敷からもはしゃぎ声が聞こえたのは、気のせいに違いなかった。


「兄上、明日、若のところに行こう。きっといーっぱいお土産買って来てくれているから!」


「描いた絵も忘れるなよ。勝蔵もいるかもしれぬが」


「……いいもん」


 相変わらず苦手意識は拭えないが、奇妙丸に会える喜びが僅かに上回った。

 勝蔵が話に入り込むことができないくらい、於泉が先に奇妙丸と親しくしていればいいのだ。


「――ならぬ」


 しかし、はしゃぎ合う兄妹を制したのは父であった。

 恒興の顔は厳かに、於泉が今まで見たことのない険しい目をしている。


「……何故? 父上」


 奇妙丸は、戻り次第連絡をするからすぐに来るよう約束してくれた。そして、報せを受けたらすぐにでも会いに行く――と、於泉も奇妙丸に約束をした。

 今だって絡め合った小指の感触が残っている。

 奇妙丸は絶対に嘘を違えたりしない。だから於泉と勝九郎も違えるわけにはいかない。


「ならぬ」


 恒興はひたすら繰り返した。


「若は、長旅の後で大変お疲れだ。お許しが出るまで、お前達はお屋敷に近付いてはならぬ。しばらく外に出るな」


「でも、父上」


「――於泉」


 食い下がる於泉の言葉を厳しく恒興が圧した。

 隣にいた勝九郎も、怯えたように竦んでいる。


「これは命令だ。よいな」


 恒興はこれで終わりだと話を切り上げた。


「……どうしてぇ?」


 残された於泉は、顔を歪ませた。勝九郎も困ったような顔をしている。

 一度交わした約束は、何が合っても守らなければならない。そう、奇妙丸は常々言っている。


 危ないことはしてはいけない。


 悪戯をしてはいけない。


 人の嫌がることをしてはいけない。


 嘘を吐いてはいけない。


 だから、約束を守りたいだけなのに。

 それなのに、恒興は二人に行くな、と言う。奇妙丸と交わした約束を反故にせよ、と。


 そんな命令に兄妹――特に於泉が納得できるはずもなかった。


      *


 勝九郎の朝は、於泉の枕を蹴り飛ばすところから始まる。放っておくと、於泉はいるまでも眠り続けるからだ。

 しかし、今朝枕を蹴飛ばされたのは、勝九郎の方であった。


 寝ぼけ眼で見上げた於泉は、寝衣を着ていなかった。


 髪を結い上げ、小袖を着込んでいる。於泉がお気に入りの、若草色に蝶の刺繍が入った小袖だった。


「兄上、若のところに行こう」


 勝九郎は瞬きを繰り返した。

 恒興から昨日、行くなと言われたばかりだと言うのに。

 しかし、行かないと言っても従わないだろう。妹の無駄な行動力は身を持って知っている勝九郎であった。


「待て、今支度をする」


 於泉は早く早くと勝九郎を急かした。


 まだ、屋敷は静かな刻限であった。侍女達の目を盗んで廊下を歩き、恒興の部屋に聞き耳を立てる。既に出仕しているらしかった。


 勝九郎に手を引かれ、於泉は騒ぎ立つ胸を押さえ付けていた。

 門番に気づかれるのではないか――そんな懸念が走るほど、心の臓がうるさい。


 奇妙丸がいない間、絵を描き溜めた。楓や桔梗、萩、芒、月……。本当は、一緒に月見をしたかった。

 奇妙丸とできなかった代わりに、勝九郎や鮎達と月見をして、その時の望月を見ながら必死で描いた。

(喜んでもらえるといいなぁ)

 汗ばむ掌で紙が濡れないように気を付けながら、於泉は城への道を駆けた。


      *


 勝手知ったる道を、供も付けずに歩く。

 本来なら絶対にするなと恒興に厳命されている。この後、どんな仕置きが待っているのかと思うと怖いし、母からはまた溜息を吐かれるのかと思うと、気が重たくなる。

 しかし、そんな気持ちさえも、奇妙丸に会いたいという願いには勝てなかった。


 城内は早朝といえども人通りが多い。

 こっちだ、と勝九郎に手を引かれ、縁の下に潜らされた。なるほど、ここを通って行こうということらしい。流石に見張りも、縁の下にまでは置かれていない。

 於泉は時折蜘蛛や蜥蜴に悲鳴を上げていたが、早朝特有の空気や、侍女・小者の足音にかき消された。


「結構、人の音がするね」


 と、於泉は言った。


「そうだろう。たまに若達と、こうして遊んだ」


「……ふーん」


 暗に勝蔵の存在を臭わされ、於泉はにわかに機嫌を悪くしたが、勝九郎が慌てて「今日は特別だ」と言われると、すぐに別の好奇心が沸き上がった。


「本当なら、俺もお前も会いに行ってはならないのだから」


「うん。今日は、特別、ね」


 胸がどきどきと音を鳴らす。

 奇妙丸は、どんな顔をしてくれるだろう。

 びっくりするだろうか。それとも、喜んでくれるだろうか。もしかしたら怒られるかもしれないが、きっとその後は笑ってくれると思っていた。


 ぎしり。


 兄妹の頭上の板が鳴る。勝九郎に口を塞がれ、於泉は息を呑んだ。

 聞こえて来たのが、恒興の声だったからだ。


「……若のお加減は如何にございますか」


 こんな朝早く、屋敷に忍んでいることが知られたら大事だ。それこそ、拳骨では済まないだろう。

 2人はその場から動くことなく、じっと堪えた。


「大したことはない。薬師を呼ぶほどでもない。が、女どもの顔しか見ようとせぬ。まったく、軟弱なことよの」


 快調なこの声をどこかで聞いたことがある。首を傾げると、勝九郎は緊張した面持ちで、「御屋形様だ」と答えた。


(この声が、御屋形様――信長様?)


 家では若干鬱陶しい感がある恒興も、やはり信長の近時だけある。張り詰めたような声はどこか凛としていて、芯が通っている。於泉は父への評価を見直したのだった。

 勝九郎は於泉の口を掌で塞ぎながら、緊張した面持ちで上からの声に耳を研ぎ澄ませている。


「左様に申されますが――御屋形様。恐れながら、此度の件……あまりにも非常にございます……!」


 恒興の声は、固い。

 どういうことかと勝九郎の顔を伺うと、口を押さえる掌に力が籠もった。


「いくら義明公擁立のためといえども、仮にも、ご嫡男を――」

「仕方あるまい」

 信長が苦々しげに吐き出した。

「あのたわけが、奇妙丸を、と望みおったのだ。傀儡といえども、操る以上言うことを聞いてやらねばなるまいて」

「なれど――」

「くどいぞ、勝三」


 息が苦しくなった於泉は、勝九郎の手を振りほどいた。

「兄上、早く行こう」

 急かすまでもなく、勝九郎は先を這い始めた。上では、恒興がまだ信長に何か叫んでいる。

 朝から元気だなぁ、と、於泉は暢気に考えていた。






 ――この時、奇妙丸の心が崩れかけていることも知らず。


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