乱離拡散【弐参】


   *


「最近、この辺りも物騒らしくて。お兄さん、他国の人? 気を付けて歩いてねぇ」


 茶屋の女達が、聞いてもいないのに勝手に喋り出す。喉の渇きを覚えて立ち寄っただけの茶店であったが、美濃のことや尾張、近辺のことを勝手に話し始めた。


(このような阿呆のような民しかおらぬとは、信長めは大したことがない)


 津々木つづきが茶を啜っていると、隣に市女笠を被った女が座った。毛氈を布いた座の上に、虫の垂衣が掛かる。特段気にもせずにいると、女は茶と椿餅を所望した。


(椿餅、か……)


 かつて、信勝も好んで食べていた菓子である。冬の訪れだ、と言いながら。


 信勝が死して以来、一度も口にしたことはなかった。続きが茶を啜る隣で、届いた椿餅と薄茶を、女は丁寧に口にしていた。

 被った市女笠はそのままで、顔も見えない。だというのに、妙な婀娜あだっぽさがある。


 津々木が茶を飲み終える頃、女はまだ茶碗の中身を残していたが、椿餅はもう、椿の葉を残すのみとなっていた。


「美濃や伊勢の近辺において、怪しげな者の姿が見られているとか」


 津々木に話し掛けているのだろうか。答えずにいると、市女笠の女の言葉が勝手に続けられた。

「どうやら、謀反を企てておられるとか。他国の草だとか。あるいは、本来ならば守るべきはずの姫君を弑しかけるとか――いずれにしても、間抜けな集団らしい」


「なにっ」


 津々木が咄嗟に刀の束に手を手を掛けるのと同時に、市女笠の女は立ち上がった。女は毛氈の上に代金を置くと、立ち上がる。


「忠義さえも守れず、情勢も読めず、過去にだけ縛られ、吠え続けるだけの者を、愚かと呼ばずになんと呼ぶであろう?」


 斬り捨ててやろうかと思った津々木だったが、次の瞬間には息を呑んだ。

 虫の垂衣の隙間から、一瞬覗いた顔には見覚えがあった。


 切れ長の、蘇芳の瞳。黒絹糸のような、艶のある髪。


 ――目の前にいる市女笠の女と、同じ顔をした少女を、津々木は知っていた。再嫁したとは知っていたが、まさか。


 市女笠の女は、津々木を一瞥だけすると、軽やかに歩き始めた。ついて来い、とでも言うように。

 胸の奥に、隠していたはずの気持ちが浮かび上がる。この感情の名を、人は嫉妬と呼ぶ。市女笠の女と同じ顔をした女に、かつて津々木は言いようもない想いを抱き続けていた。


 信勝の寵愛を受けていたくせに、信勝を弑した男に下った女。

 恥知らずにも、信勝以外の男に嫁ぎ、子まで産んだことが許せない。髪を落とすこともなく、幸福に生きて来たことが。




(この娘の首を落として、あの女の目の前に投げつけてくれる……!)




 人の波が途切れた瞬間、刀を抜き、斬りかかった。市女笠が吹き飛んだ代わりに、火花を散らしたのは、短刀だった。続きの刀を受け止めながら、女が微笑む。


「太刀筋が鈍っているんじゃないのか」


 市女笠を被っていた女――否、少女のような風貌をしているが、少女ではない。声も先程、津々木を侮蔑した玲瓏さまではなく、もう少しだけ低いものだった。


 気が付くと、津々木は周囲に誰もいない、裏通りに誘い出されていた。


「なんだよ。せっかく助けてやろうかと思ったのに」


 つまらなそうに現れたのは、槍を担いだ少年であった。鉄面頬も要らなそうな凶悪な顔で、槍を担いでいる。まだ脂も血も吸っていない、美しい穂先であった。


「勝蔵。お前は引っ込んでろ。これは池田家の内情だ」

「知らねえよ。俺は若から好きにしろって許しをもらってんだ」

「それこそ、知るもんか。俺に至っては、御屋形様からも許しをいただいてるんだ」


 凶悪顔の少年は、悪戯をたくらんだように口の端を釣り上げた。



「よーく分かった。つまり、早い者勝ちってことだな?」

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