梅林止渇【壱】


      *


――永禄9年(1566年)、某日――


「於泉は如何した」


 奇妙丸の声に反応した勝蔵と勝九郎が辺りを見渡した。


 於泉の姿が見当たらない。つい先ほどまで、庭にいたはずだった。

 剣の稽古をするおのこ達から少し離れたところで、鞠を突いていたのを視界の端に捕らえていたのだが。


「探して参ります」


 勝九郎は奇妙丸と勝蔵に一声掛けてから部屋を飛び出した。


      *


 奇妙丸の屋敷を離れ、北の方に近付いて行くと、唐紅の結布がふわりと揺れた。

「いた」

 勝九郎は溜息を吐くと、そちらに向かって歩を進める。


 於泉は、橋の上から池を覗き込んでいた。

 水面に映った於泉の顔は、眉を八の字に描かせている。

「於泉、駄目だろう。こんなところにまで来たら」

 奇妙丸から許されているのは、奇妙丸の屋敷とその庭だけ。ここは、家臣達も多く出入りをしている場所だった。

「だって」

「だってじゃない。若がお前のこと、探してたぞ」

 腕を引っ張っても、於泉は付いて来ない。ふるふると頭を振るだけだ。

「鞠が落ちちゃったんだもん……」

 鞠、というのは、去年、恒興の従兄弟いとこである滝川一益たきがわかずますが、於泉が7つになったお祝いにと贈ってくれたものである。

 山吹と菫の糸で刺繍が施されており、於泉はいたく気に入って、持ち歩いていた。


 勝九郎も橋の上に乗り出して水面を見てみたが、それらしきものは見当たらない。


「沈んじゃったのかな」

「鞠が沈むか……?」

「分かんない……。……兄上、ところで襷は持ってる?」

「持ってない。持っていても、絶対に貸してなんかやるもんか」

「けち」

 不貞腐れても、勝九郎には効かない。


 この跳ねっ返り娘のことだ。見つからなかったら泳いででも探すと喚くのだろう。そんな馬鹿な真似はさせられない。


「何をしている?」


 裾を捲り上げようとする於泉を羽交い絞めにして押さえつつ、勝九郎は声の方角を振り返った。信長の近習辺りに見つかったら、怒られてしまう。


「臣下の子らか?」


 声を掛けて来たのは少年だった。年の頃は、勝九郎よりも3つほど上だろうか。小姓のかみしもを身に付けている。


 少年は穏やかな声音で問い掛けて来た。蘇芳の瞳が勝九郎と於泉を代わる代わる映しこんだ。

 少年の後ろからは、大人達の姿が見える。

 少年はちらりと背後を見やると、微笑んだ。悪戯が見つかったのを誤魔化す、童のような表情。大人びた相手の笑顔が急に身近に感じ、於泉は安堵していた。

「ここにいたら、怒られてしまう。さ、お行き」

「はい、失礼致します」

 勝九郎は挨拶をすると、於泉の手を引っ張った。於泉はまだ後ろ髪を引かれているようだったが、今度は駄々を捏ねることはしなかった。


 遠ざかる少年を振り替えながら、

「……だぁれ?」

 と、問い掛けられた。

「さあ」

 装束とは裏腹に、言葉遣いや佇まいからは、隠しきれない気品が見え隠れする。織田家の一門か、近習であることは間違いない。

 勝九郎は、於泉の手を握り直した。


 於泉は勝九郎の顔を見上げた。

「あの人、若の兄上?」

「違う。若に兄上はおらん」

「でも、似てたよ?」

「そうか?」

 勝九郎には、然程あの少年と奇妙丸が似ているとは思わなかった。むしろ、目の色などは、奇妙丸よりも、於泉に似ている――などと、無意識に思っていた。


「それにしても鞠、どこに行っちゃったんだろう。綺麗な鞠だったのに……」

 於泉の興味が鞠に戻ってしまったので、勝九郎は奇妙丸の屋敷に戻るまで妹を宥めなければならなかった。


      *


 少し後に知ることになるのだが、橋の上で出会ったのは、奇妙丸の従兄いとこであることを知る。


 名は、織田新八郎しんぱちろう


 後に信兼のぶかねと名乗るようになったその少年は、かつて信長と家督を争い、謀殺された同母弟おとうと信勝のぶかつの遺児であった。


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