忍ぶれど……【拾捌】


       *


 黒い滴が紙の上に落ちた。泡がいくつか浮かんで、やがて爆ぜる。

 小姓が新しい紙に取り換えてくれるのを、奇妙丸はぼんやりと見つめていた。


(いかんな……)


 ふるふると頭を振る。

 せっかく選んだ紙だったのに、また選び直さなければならない。


(いつもこうだ)


 たった一通の文を書くだけのことなのに、必要以上に時間を使ってしまう。書簡も文も、書き慣れたもののはずだった。

 墨の濃さも、筆の動かし方も、そしてその掛けた時間を無意味にしてしまう。


 しかし不思議なことに、これを厭だと思わないのだから不思議だった。


 父親に似て、奇妙丸は元来合理的ではないことをあまり好まないはずだった。

 それなのに、この作業だけは嫌いではない。むしろ、好んでいる。

 たった一文しか記すことを赦されない文。受け取ったら相手はどう思うだろうか――そう考えるだけで、胸が躍るのだった。


【思へども なほぞあやしき逢ふことの なかりし昔 いかでへつらむ】


 朝餉を終わらせるなり取り掛かった作業だったが、片が付いたのは、結局昼を過ぎてからだった。

 香を焚き染めた紙からは、柔らかい花の香りが浮かび上がる。

 文箱に掛けた紐は、よれて不格好だった。


(喜んで、くれるだろうか)


 脳裡に、紐の編み方を教えてくれた幼馴染の顔が浮かぶ。

 きっと喜んでもらえますよ、と弾けるような笑顔がもらえるに違いない。それだけで信頼できた。


 この文をあきらめ難いのは、きっと周囲への反発もある。

 奇妙丸はかつて、知りたかった想いが蕾になる前に毟り取られたことがあった。だから、二度と同じことはされまいと気を付けている。


 もう、今更花が咲く前の光景を思い出すことなどできやしない。


 最初は、政のため、織田家のためだった。しかし、今は違う。


(手放すものか。……お前だけは)


 数年前、たった一度だけ相まみえた。

 言葉を交わしたのは、数えることもできないほど、わずかな間だけ。それでも、奇妙丸の脳裡には、あの日見た桜が忘れられない。

 甘く、そしてほんの少しほろ苦い記憶だった。


「若殿――」


 部屋の外から、小姓が声を響かせる。

「如何した」

 返事をしながら、奇妙丸は大切に文箱を隅に置いた。

「森勝蔵様がいらしておりま――」

 小姓が皆まで言い終わらないうちに、御簾が広げられた。言わずもがな、件の森勝蔵長可である。


「想像しいぞ、相変わらず。元気なのは何よりだが」


 小姓に下がるように命じながら、奇妙丸は脇息に凭れかかった。

「何してんですか、あられもない」

「別に、お前しかおらぬのだからよかろう」

「於泉が来たらどうするんですか。あいつの若への信仰心が消え去りますよ」

「大丈夫。今日は約束をしておらぬからな」

 返事をすると、長可がまたむっつりと黙り込んだ。何が気に入らないのか、問い掛けるのが面倒なので、しない。

「して、如何した。早う要件を言え」

「いえ……」

 長可がもにょもにょと何かを呟いている。

「何じゃ、単に会いに来てくれたのか? 儂に」

「それもありますけど……」

 それも、ということは、他にも要件があるのは間違いないらしい。しかし、単に会いたいと思ってくれたのなら、それはそれで奇妙丸にとっては喜ばしいことだった。

 単純に会いたいと、そう言ってくれる相手ともがいるのは喜ばしい。無論、口にしたら、鷺山より更に高く調子に乗ることは間違いないので、言わないが。

「まあ、ゆるりとしておけ。あれか、家臣をぶった斬ったので、儂に取り成してほしいのじゃろ」

「今日はまだ斬ってません」

「いや、今日って」

「……最近、三七様も出入りされていると言うのは、本当ですか」

 隠していることでもない。うん、と頷くと、長可は仏頂面を深めた。

「三七は、母は違えど儂の弟じゃ。会うたらまずいことでもあるか」

「いえ、ないですけど……喧嘩とかは、してない、ですよね?」

「するほどのこともないから、安心致せ」

 奇妙丸が言うと、長可は「ふうん」と仏頂面を和らげた。


「そもそも儂と喧嘩したり、取っ組み合いをしたりできる度胸があるのは、お前くらいじゃぞ、勝蔵」

「家臣に対して、若って結構甘いですよね」

「厳しくするのは父上と、それと河尻の爺、庄九郎がおる。ま、庄九郎の場合は単に昔揶揄われた憂さ晴らしをしている部分もあるんじゃろうが」

「憂さ晴らし?」

 長可が首を傾げると、奇妙丸は笑みを零した。


 今もだが、奇妙丸の下に下賜されたばかりの頃、庄九郎は今以上に少年か少女か区別がつかなかった。少しでも周りに後れを取れば「やはり女子だから」と揶揄われ、慎重深く行動すれば「女子だから臆病なのじゃ」と揶揄われ。

 無論、庄九郎が今の信頼や地位を獲得したのは、当人の努力によるものであるのは間違いない。しかし、それなりに思うところはあるらしい。時折地味な嫌がらせをしているのは、奇妙丸だけは知っている。


「そういうところ……」長可が肩を震えさせた。「於泉とよく似てますね。顔は似てないけど、やっぱり兄妹なんだなぁ」

「であるな。見ていて飽きぬ。お前達3人は。でも、お前はもう少し大人しくしてくれよ」

「善処できるよう努めます」

「いや、善処致せよ」


 途中で機嫌を良くしたり悪くしたり、長可も表情がころころ変わって面白い。

 1番大切なことは、言ってやらないと奇妙丸は決めている。長可はすぐに調子づくので、奇妙丸の権威を笠に着て、城が真っ赤に染まってしまうからだ。


(それでも、お前は……お前達は、何があっても俺を裏切らないでいてくれるのだろうな……最後まで)


 色々と話しているうちに、日が暮れて行った。長可が立ち上がる。

「それじゃあ、また。しばらくは岐阜の屋敷にいますので。何かあれば」

「相分かった。岐阜の、そなたの屋敷に使いをやれば良いのだな」


 長可が出口の方に近付く――直前、思い切ったように振り返った。


「若」

「何じゃ」

「何かあったら、遠慮なく言ってください」

 長可の黒鳶色の双眸は真剣そのものだった。いつものように、茶化して返すことなどできない。

「うん、分かっている」

 頷くと、満足そうに長可が白い牙を見せて笑った。


「若を困らせる奴ぁ、俺が1人残らずぶっ殺して差し上げますから」

「うん、お前に1番困らされるのはよく分かった」


 長可の姦しい足音が遠ざかっていく。心地よいそよ風を感じながら、奇妙丸は次の季節に耳を澄ませた。

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