梅林止渇【拾参】
*
あの日、黙って見送ったことを後悔した。
黙って送り出すことしかできない、自分の無力さを恨んだ。
ようやく戻って来たあなたを見て、誓ったんだ。
二度目はない。再びがないように、かならずあなたを
――何を犠牲にしたとしても。
*
指先が震えた。
息を切らした庄九郎が不安げな顔で水を差し出してくれる。茶碗の中身を一気に飲み干し、突き返した。
「それは、まことの話か」
何の気なし、を装おうとしているが、実際には奇妙丸の声はひどく震えているのが分かる。
「先程、御屋形様の小姓達が話をしていたのを聞きましたので、間違いないかと思われます」
どこの誰が聞いているかも分からない場所で、政に関する話をするなど、近習としてあるまじき失態である。いつもの庄九郎なら、すぐさまその小姓達を捕まえ、叱責していただろう。
しかし、内容が内容であっただけに、奇妙丸に報告せずにはいられず、息が切れるほど廊下を駆けて来たのだった。
――信長は、現将軍・
「無論、すぐにというわけにはいかないと思います。しかし、早ければ1年後には、室町幕府は消えてなくなるかと」
「1年……まだ、そんなに掛かるのか」
奇妙丸は自らの手首を見つめ、自嘲気味に笑った。
もう、そこに縄の痕は残っていない。しかし、あの日、奇妙丸は全てを奪われた。
「何だか……微妙な気持ちになるな」
織田家のため、新たな将軍を擁立するために、奇妙丸はその身を差し出した。
そうまでして奉った義昭を、信長は今度は京から追放しようとしている。
仕方がない、といえば全くその通りではある。
信長には、織田家が将軍の後見をしたという実績がひつようだった。かつて、三好が足利
「若……」
庄九郎が不安そうに蘇芳の双眸を揺らした。
「平気じゃ」
奇妙丸は、庄九郎の肩に頭を預けた。
血を分けた身内よりも近く、自分を想ってくれる家臣。そんな相手が、今はいる。
「……儂も、上洛することになるのだろうか」
また、この身を使われるのだろうかと、奇妙丸は脳裏に燃え尽く記憶に蓋をしたかった。
「仔細までは存じませんが……若が此度の件で上洛することはないかと。御屋形様は、娘御を
「堂上家、か。今だと、
義昭を遇し、見届け役を務めた二条
義昭からも寵愛された晴良は、4年前には一度は辞した関白の座に返り咲いていた。
義昭は既に傀儡であり、実験はない。しかし、将軍家の名には、未だ多大なる
「とはいえ、当家にちょうどよい年頃の姫はおったかな……」
奇妙丸が思い当たる、嫁入りに適した年頃の姉妹は2人。すぐ下の
それより下の妹は、まだ嫁にやれるほどの年ではない。
となると、二条家に嫁がせるとしたら、家臣の娘達の中から適当に選び、養女にした上で嫁がせるに違いない。
「父上のことじゃ。美しく聡明な、よき娘御を選ばれることだろう」
「はい。……もし若が京に行かれることになりましたら、俺は、この身を賭してお守り致します」
奇妙丸が照れたように頬を色付けながら、身を起こした。
「織田家は、きっと儂が思うておるよりも、ずっと大きな波に飲み込まれる
「不安ですか」
震える奇妙丸の拳に、庄九郎は掌を重ねた。
「否。不安――とは違うと思う。だが、父上が成された世を受け継ぐのが、他の誰でもなく自分なのかと思うと、何と言うか、気が遠くなる。だが……楽しみなのか、気が高ぶってしまうのじゃ」
震えは、まだ幼い少年特有の弱さと、同時に歓喜によるものだった。
二度と、誰にも負けないと誓った。そのためには力が必要だった。
奇妙丸はまだ、学ばなければならないことが山ほどある。
織田家を継ぎ、新しき世を治めた
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