梅林止渇【拾弐】


      *


――某日、岐阜城下――


 柚乃と初瀬の目を盗みながら、於泉は屋敷をこっそりと抜け出していた。


 長可に拒まれたことで、数日の間傷心していた。しかし、日が経てば経つほど、腹が立って来たのだ。


(何でわたしがフラれたみたいにならなくちゃいけないのよ)


 傷つけられたことが腹立たしい。それも、長可如きに。腹を立てている自分のことも。


 だが、こんなことは誰にも相談できなかった。

 こうしてみると、於泉は気兼ねなく長可には愚痴を言えて、長可の存在に支えられていたのだということに気が付いてしまった。


 川辺に近寄り、水面を覗き込む。


 男か女かも区別がつかない、平らな体。

 疲れた顔。

 友人は、いる。しかし、何かを相談できる相手は長可だけで、長可に相談ができなければ、於泉は1人で自問自答するしかない。


(……みすぼらしい)


 うつむいていると、草を踏む音が聞こえた。顔を上げると、以前よりは少し身綺麗になった勘重郎が立っていた。


 ここ数日、悩んでいたことがあった。しかし、何故だろう。勘重郎になら、愚痴を吐き出したとしても、許されるのではないか――と、不思議と思えたのだった。


「これはこれは、姫様。如何なさいましたか」

「……勘重郎殿」


 於泉は安堵したように微笑んだ。顔を覚えていてくれたことが、ひどく嬉しかった。


      *


 仏壇に向かって手を合わせていると、陶器が割れる音がした。

 恐る恐る目を開くと、奈弥の視界にひび割れた茶碗が入り込んで来た。

「まあ……」

 以前、夫に貰った茶碗である。小花柄が描かれた小ぶりな造りで、気に入っていたのだが。

 時折手入れはしているから、劣化とも考えにくい。何より、つい先ほどまで奈弥はこれを使用していたのだ。触れていないにも関わらず、割れたことが恐ろしくもある。

 奈弥は御簾を払わせ、部屋の外へ進み出た。


 向こうの廊で、柚乃と初瀬が何やら喋っているのが見える。離れているので話の内容までは聞こえないが、大方、於泉が黙って屋敷を逃げ出したのだろう。


(まったく、あの子は……)


 奈弥は静かに溜息を吐いた。

 血筋のせいであろうか。於泉は武家の姫としてあるまじき好奇心を兼ね備えている。外に出るなとまでは言わないし、言っても無駄だと知っているから言う気もないが、せめて供の者くらいは付けて歩いてほしい。


(そうでなくとも、近頃は……)


 先日、夫の部屋で庄九郎に聞かされた話を思い出す。


 於泉が関心を持った、という男。


(あのひとが、生きておられるわけがないわ……だって、あの方は……様は、もうこの世にいないんだもの……)


 亡霊など、いるわけがない。

 奈弥は打掛の袖の下、拳をきつく握り締めた。

「母上?」

 呼び掛けに奈弥ははっと顔を上げた。立っていたのは、次女の鮎である。

 鮎は奈弥のことを心配そうに見つめた。

「母上、お顔の色が悪うございます。大丈夫ですか?」

「ええ、お鮎。心配してくれてありがとう。問題ありません」

「でも、母上。母上は今、大切な御身体です。無理はなさらない方が……」

 奈弥は今、新たな子を身籠っている。何となくだが、女子の気がする子だ。


 奈弥は愛しげに腹を撫でると、鮎の方に近付いた。


「ありがとう、お鮎。お鮎は優しい子ですね。……少し、疲れが出たのかもしれません」

「でしたら、お休みください。今、薬湯を持って来させます」

 鮎は侍女に命じながら、奈弥の部屋に付き添った。

 鮎は、部屋の奥に置かれている仏壇を見やった。仏壇には、汚れた菩薩像が設置されている。


 奈弥はいつも、この菩薩に熱心に祈りを捧げている。鮎自身はこの仏壇が何故だか近寄り難く、母の部屋に来た時も、あまり近付いたことはなかった。

「お鮎、どうしました?」

 侍女から受け取った薬湯を飲みながら、奈弥が優しく微笑んだ。

「……母上は、いつもあの仏像に、何を祈っておいでですか?」

 奈弥の表情が一瞬強張った。――於泉に向ける時のような。

 無理に言わなくていい、と言うより先に奈弥が口を開いた。


「池田家の繁栄です」


 奈弥は茶碗の中をじっと見つめた。薬湯の中では、遠くを見つめる奈弥の美顔が揺れていた。


「殿が背負われる咎が私の元にも来るように……どうか、あなた達にまで降りかかることがないようにと、祈っています。私には、祈ること以外何1つできません。ただの女子に過ぎぬ、この身には――」


 鮎は美しい母の横顔に、深い悲しみと闇を垣間見た気がした。

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