梅林止渇【拾四】
*
奇妙丸の部屋を出ると、角のところで誰かが息を潜めていた。
信長の正室・帰蝶の侍女である。
庄九郎も交流があった娘で、それまで名乗っていた名は由来があんまりだということで、庄九郎が新しい名を与えていたのだった。
「
庄九郎が呼び掛けると、於雪ははっとしたように顔を上げた。
心ここに在らずと言った風な於雪の手には、文箱が持たされている。
「あの……若殿に……奥方様からの、文を預かっております」
「分かった。若にお渡ししておく」
於雪が視線を落とした。
「……京は、戦火に巻き込まれることになるのでしょうか」
於雪の
京に何かあれば、於雪の兄弟や親類縁者も危険に巻き込まれるのは確実だった。
「於雪」
庄九郎は、於雪の掌を握った。夕顔の花びらのような、真白い肌。庄九郎が「於雪」と呼ぶようになったのも、この色白さが理由の1つである。
「君が戦を嫌っていることも、……君の生家が、武士の身分を捨てていることも、重々知っているつもりだ」
「…………」
「だが、ここは織田家だ。武家だ。織田家は、天下布武を成そうと家中で団結しているところ。どんな理由があろうと、君が奥方様の元に身を寄せている限り、そんな甘えた言葉は許さない。皆の士気に関わる」
「……承知しております」
於雪は悲し気に柳眉を歪めた。夜空を溶かしたような双眸が庄九郎を映し込む。
「もし、戦となり……御屋形様と上様が争うようなこととなれば、池田様も出陣なさるのですか?」
「ああ。どこまでも若と一緒に行く。俺は、若をお守りすることが役目だからな」
「そうですか。……それでは私は、その時が来たら、池田様の武運を祈らせていただきます」
庄九郎は首を傾げた。
於雪が不安になるのは、故郷が戦に巻き込まれることのはずなのに、何故庄九郎の無事を祈るという話になるのかが分からなかった。
そうでなくても、於雪は他国の間者だ。今は休戦状態にあるというだけで、刃を交えようとしたこともある間柄である。
しかし、於雪の微笑を見ると、そんな疑問さえもどうでもいいと思えるのだから不思議だった。
「……於雪」
「はい」
「君は、一体――」
何者なんだ?
帰蝶の姪であることが事実なのか、それともそこからして偽りなのか。
もし帰蝶の姪ならば、於雪の正体は……。於雪が心酔している主の正体は……。
於雪は、庄九郎にも誰にも、自身の出自を明かしてはいない。会えば挨拶を交わすようになり、時折文を交わすようになった今も尚、どこかで無意識に線引きしてしまっている。
聞きたいが、怖くて聞くことができないでいる。
信じたいのに、於雪は触れたら最後、儚く遠くへ行ってしまうような、そんな危うさを持っている。
庄九郎は、伸ばし掛けた掌を下に降ろした。
「……何でもない。若にはこちらの文、確実にお渡ししておく」
「ええ。よろしくお願い致します」
於雪は踵を返すと、帰蝶の御殿の方角へ戻って行った。
(信じたい、けど……)
どこの誰なのかも、分からない。明らかなことが、何もない。
それだけに、庄九郎は燻る想いをひた隠しにして、目を瞑っているしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます