梅林止渇【拾五】


        *


「それでね、勝蔵殿ったら……」


 いつもであれば、庄九郎が回し蹴りを食らわしてくるような勢いの喋りができるというのに、今日はほどほどに、遠慮口調になってしまう。


 勘重郎というのは、不思議な男だった。


 於泉がこの男と会うのは、これで二回目だった。それなのに、どこかで会ったことがあるような懐かしさを感じる。

 それと同時に、自分のことを必要以上に知らせてはならないと、警鐘の音も聞こえていた。


(わたしの方が会いたいと思っていたはずなのに……もう、帰りたい、なんて思ってる。おかしい……)


 勘重郎は、考え込む於泉の顔を覗き込んだ。

「姫は、その勝蔵殿という男のことを、好いておられるのですか?」

 問われた気持ちに、於泉は頬を染めた。

「……ただの……幼馴染です」


 ――長可にとっては。


 於泉は、長可が好む容姿などしていない。のっぽで、胸も平で、他の女が持つような柔らかさなど持っていない。

 長可が好むとしたら、於泉などではなく、柚乃のような女人のことだ。


「それはおかしゅうございますなぁ」


 勘重郎の汚れた指先が顎に掛けられ、持ち上げられた。

 湖のような、深い色をした瞳。水面の美しさだけに目を奪われ、何も知らずに足を踏み入れたら、そのまま凍り付いて抜け出すことができなくなる気がした。


「姫。あなたは、美しい。……本当にあなた様は、の幼き頃に、よく似ておられる」

「……?」

「ああ、これは失礼を致しました。お許しを」


 勘重郎は於泉から指を離すと、深々とこうべを垂れた。


「……前にお会いした時に、呼ばれていた方ですか?」


 ――様。


 風に消された音は、かなしい相手の名だった。


「その御方は――勘重郎殿の、大切な御方だったのですか?」

「大切な御方のではありません。今も尚、心を捧ぐ御方にございます。ただ1人の。……しかし、もうこの現世うつしよには、おられぬのです」


 勘重郎の瞳が冷たさを増した。

 咄嗟に、逃げなければと思ったのに、体を動かすことができなかった。


「死んでしまったのです。その御方は、あなたが生まれる前に、病で」

「病で……」

「悲しくて、恨めしくて、私は今も、その御方を忘れることが叶いません」

 勘重郎の双眸が歪み、ぼろぼろと涙を流した。

 於泉は、手拭いを差し出した。

「良かったら、使ってください。差し上げます」

 於泉が差し出した手拭いに、勘重郎は顔に纏わりつく涙とすすを吸い込ませた。


(この方は、これまでどんな想いで生きて来られたんだろう……)


 戦ならばともかく、病では防ぎようがない。


 戦が日常的な世でも、大切な人、近しい人が突然いなくなることは、苦しい。

 長可が父と兄を相次いで亡くした時の様子は、見るに堪えなかった。


 そして、奇妙丸が京から戻って来た時も。


 勘重郎は、大切な相手が弱って行くのを、まざまざと見せつけられ、何もできぬままに逝かせてしまったのだ。

(わたしだったら、耐えられない)

 於泉はそれきり何も言うことができず、嗚咽を漏らす勘十郎のことをじっと見下ろしていた。


       *


「――於泉?」


 勘重郎が落ち着いて来た頃、聞き慣れた声が少し離れた場所から聞こえて来た。

 どんなに振り切ろうとしても、何をしていても、心というのは身勝手にできている。

 懸案けんあん事項の相手の声が聞こえれば、やはり嬉しいと思ってしまうのが乙女心というものだった。


「勝蔵殿!」


 長可は手綱を兵庫に預けると、馬から降り、どかどかと乱暴な足音を立てながら於泉に近付いて来た。何故だか、いつもより更に怖い顔をしていた。

「何してんだ、お前は。供も付けないで」

「ちょっと野暮用があって……」

 柚乃に会うなと叱られた相手の顔を見に来たとは、いくら於泉でも言えなかった。

「野暮用が、じゃねえよ」

 長可が於泉の頬を抓り上げた。

「さっさと帰るぞ。送って行く」

 長可は於泉の承諾などお構いなしに抱え上げて馬に乗せると、自分も跨った。

「勘重郎殿、すみません。失礼致します」

「はい、姫。ありがとうございました。ご縁があれば、また……」

 勘重郎は長可の方を一瞥すると、固まったように見えた。しかし、すぐに於泉に向き直り、笑顔に戻って見送った。


(もう、勘重郎殿には、会わないようにしなければ)


 今更ながら、柚乃の言い付けを破ったことを反省した。そして、自分の浅はかさを悔いた。

 於泉は手を振り返しながら、長可の胸にしがみ付いていた。


      *


 荷物が1人増えたので、馬を走らせるわけにはいかない。

 急ぐ道のりでもない。ゆっくりと、揺れすぎないように馬を歩かせた。

「あの男、於泉殿のお知り合いですか?」

 口を開いたのは、兵庫だった。

「ええ……この間、お寺に説法を聞きに行った帰りにお会いして……」


「説法!?」

 長可が信じられないものを見るかのように於泉を見下ろした。耳元で怒鳴られたので、耳鳴りがひどい。

「あんな退屈なもん、よく聞きに行こうと思えるな⁉ 頭おかしいんじゃねえの!?」


「殿、うるさい」


 家臣でありながら、兵庫は長可が諱を賜るなど夢にも思っていない頃から森家に仕えている。兵庫は長可が頭が上がらない相手の1人だった。


「すごく頭がいい人だったの。『金槐和歌集』の一句を空で言えたり。……でも……」

「でも?」

 兵庫の促しを遮るように、長可はいきなり於泉の裾をめくり上げた。

「まさか、あの男に襲われでもしたのか!?」

 今日の於泉は馬乗り袴を履いておらず、捲られたらその下にあるのは腰巻だけである。

 必死になって於泉が抵抗していると、兵庫が唐突に


「於泉殿、手綱を持たれよ」


 と言った。

 言われた通りにすると、次の瞬間、長可の後頭部に石礫いしつぶてが命中した。

 長可が倒れ込んで馬が暴れ出さないように、於泉は手綱を引いて何とか堪えた。


「殿のことは、後ほどきつく叱っておきますのでお許しを。……ですが於泉殿。一度や二度会うただけの男に、それも、どこの馬の骨とも知れぬ者に、付いて行ってはなりませぬ」

「……はい」


 勘重郎の双眸は、凍てついた湖などというみやびなものではない。

 湖の底で、おりのように積もり溜まった――憎しみ、怒り、悲しみ――負の感情が手招きしていた。


「ひとまず――」兵庫は溜息を吐いた。「勝三殿には、某の方から報告を上げておきます故、お覚悟を」


「え――――――――⁉」


 於泉が叫ぶと、馬がびくりと揺れて駆けだした。意識を取り戻した長可が手綱を奪い、軽々と大人しくさせていた。

「どうして、兵庫殿!? 何で父上に報告するの⁈」

「当たり前です。年頃の女子が独り歩きをするなど、言語道断にござる」

「そんなぁ……」

 やーい、と長可がはやし立てると、すかさず兵庫は「殿」と低い声で呼び掛けた。

「若殿より、の件についてお聞きしております。殿の御口からも仔細を聞きとうございます。屋敷に戻り次第、お話が」

「……物理か?」

「お話はお話にございます」

 やいのやいのと騒ぎ、お前のせいだ、いやあんたのせいよ、と責め立て合いながら、屋敷の方角に馬を歩かせる。

 時折騒ぎすぎて馬を怯えさせる横で、兵庫の口数が少なくなっていたことに2人は気が付いていなかった。

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