乱離拡散【伍】


        *


「御屋形様」

 戸の前で、小姓が呼び掛けて来る。それを合図としたかのように、頭を撫でていた心地よい掌の感触が、止まった。面白くないのでもっと撫でよと合図をすると、再び掌の動きが再開した。

「若がいらしております」

 そういえば――今朝がた、そんな先触れを小姓が持って来た気もする。

「通して良いぞ」

 信長は渋々帰蝶きちょうの膝から頭を上げると、座に腰を下ろした。視界の端で揺れた打掛の裾を掴む。

「そこで待っておれ」

「しかし――」帰蝶は目を泳がせた。「奇妙丸殿は、わざわざ先触れを出されていたのでしょう。大切なお話があるのでは」

「構わぬ。そなたも、そこで聞いておれ」

 帰蝶は迷いつつ、信長の座から手が届く位置に腰を下ろした。


 少しして――戸が開く。


 御簾が上がり、奇妙丸が入って来た。

 柳緑の大紋の前を、緋色の紐が揺れている。今年で16歳になる奇妙丸は、元服こそ果たしていないものの、随分と大人びて見えた。

 その後ろには近習の池田庄九郎と、与力として付けた森勝蔵長可が控えている。

 奇妙丸は簡素な挨拶を済ませると、目を細めた。

「先日は、にございましたな」

 奇妙丸は、睫毛を伏せた。

「本来であれば今頃、関白家には、池田家より頂戴した姫君がお傍に上がっているはずでした。しかし、何処いずこの不届き者により、縁談は滅茶苦茶に――しかも姫以外は皆、殺害されたと聞き及びまする。生き残った姫すらも、生死は危ういとのことですが」

「うむ。まったく、ひどい輩もいるものじゃ」

 信長は大仰に顔をしかめた。

「勝三にも――そして庄九郎、そちにもすまぬことをした。関白家には詫びの品を十二分にお届けしておる。関白家からは姫の回復を祈ると、温かい言葉を頂戴した。代わりの姫が見つかり次第、改めてご縁を結ぶ約定を交わしておる」

 初めから於泉は炙り出すための道具に過ぎなかったことを、信長は隠そうともしない。実子すらも手駒とする男だ。一切の罪の意識に苛まれることもなく、於泉達が斬られるのを待っていたに違いない。

「しかし、代わりの姫が見つかろうとも、織田家が受けた端が拭えるわけではございませぬ。故に、一刻も早く不届き者どもを見つけ、打ち取らなければならぬのではないでしょうか。

 そこで、ににお願いしたき儀がございます。

 ――どうかその御役目、この奇妙丸にお預けいただけませぬでしょうか」


「奇妙丸殿」


 帰蝶が顔を顰めた。

「この一件は、御屋形様も解決に向けて動かれております。そなたが気にすることではございませぬ。下がりなされ」

「いいえ、母上。そうはいかぬ事情があります。

 某は、の姫は、幼馴染の間にございますし、何よりこの庄九郎の妹。我が家臣に嫁がせたいと勝手ながら思うたことがある程には、存じております。

 いわば、妹同然の者。

 その者に刃を向けられたというのに、どうして黙っておられましょう。ここで仇討ち1つせねば、それこそ汚点として、生涯まとわりついて来ることとなりましょう」

「なるほどのぅ」

 信長はにやりと微笑んだ。

「やってみるといい」

「殿!」

 帰蝶が咎めるが、信長は特に気にした風もない。

「庄九郎と、勝蔵も供をしてくれるのであろう。ならば安心じゃ。それに奇妙丸、そなたの剣の腕前は相当と、河尻に聞いておる。戦ばたらきでまこと役に立つのか、試してみい」

「……ありがたき」

 奇妙丸は言質を受け取ると、帰蝶が呼び止めるのも構わず、立ち上がった。

 庄九郎と長可が続いていることに気が付くと、部屋を離れてようやく、自分が背筋に脂汗を掻いていることに気が付いた。

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