乱離拡散【拾伍】


      *


 小姓が息を切らして駆け寄って来る。奇妙丸きみょうまるが筆を止めるのとほとんど同時に小姓が入って来た。

森勝蔵もりしょうぞう様が、お目通りを、と……」

「通せ」

 奇妙丸は顔を上げることもなく、小姓を促した。筆が止まったのもほんの一瞬である。政務を滞らせるわけにはいかない。


 筆が動く音。紙の擦れる音。墨の匂い。そして――やや殺気立ったような、人の気配とともに、戸が開く。


 長可ながよしの顔をちらと一瞥しただけで、奇妙丸は書き物を再開した。

「実は若。金山の商人から情報を仕入れて来たんですよ」

 喋る許可を与えてもいないのに、長可は勝手に話し始めた。

「尾張国――那古野、清洲、末森――そして美濃国岐阜。更に伊勢の近辺で、怪しげな男が」

「その話ならば庄九郎に聞いておる」

 奇妙丸がすかさず言うと、「なんだよっ」と長可は頬を膨らませた。まるで、餌を頬に詰め過ぎた栗鼠のようである。長可は栗鼠のような愛嬌は少しもないが。

「伊勢には、我が弟達。そして、従兄弟どもがおるな。その父は皆、死んだ勘十郎かんじゅうろう叔父上じゃが」

「やっぱり……」

「お前の話も、庄九郎の話も一致する。真実と見て、ほぼ間違いなかろうな」

 ちょうど、一区切りついたので筆を置く。


「――場所を変えるか」


 小姓を一瞥しながら、立ち上がる。取らせた小袖を肩に羽織ると、奇妙丸は庭に降りた。長可もその後に続いた。


   ◇◆◇


「天気が良いのぅ。まだ、寒いが。美濃は甲斐などに比べると随分温かいそうじゃ。これより寒いなど、儂には考えられん。まったく、耐えられる御方がおられるのだから、尊敬するよ……」


 奇妙丸は乱れた髪を撫でつけ、耳に掛けた。他の者がやればはしたない行為になるのだろうが、奇妙丸がすると、一枚の絵になるのだから不思議である。


「よく生きているといえば――そなた、池田の屋敷には行ったか?」

「はい。池田家の侍女に聞きました。――目覚めた、と」


 長可が森屋敷に着くと、ちょうど垣根越しに、於泉おせんの侍女である柚乃ゆずのと目が合った。柚乃は長可の姿を見とめると、於泉が目覚めたことを教えてくれた。

 本当は、寝顔の1つも見たかったのだが、柚乃から堪忍してほしい、と断られた。まだ衰弱状態から抜けたわけではなく、話ができるわけでもないらしい。今は家中でも限られた者にしか面会は許されていないのだということだった。


 今も寝たり起きたりを繰り返しているようで、粥もまだ満足に自力で噛むことはできないらしい。鮎や柚乃が無理やり流し込んでいるのが現状のようで、薬師は「よくつものだ」と感心しているそうだ。


「あいつの生命力、あやかしばりですよね」


 奇妙丸が小さく噴き出した。


 思い返せば崖から落ちそうになったり、小屋に軟禁されかけたり、危険な目に巻き込まれる星の定めを持っているらしい。今回の件で少しでいいから反省し、何にでも首を突っ込みたがる性質をどうにかしてくれればよいのだが。


 於泉は、犯人の顔を見てしまっている。意識が戻ったことが知られれば、口封じに殺されるだろう。

 普段の於泉ならば悪知恵を使って返討にするのだろうが、床に着いたままの於泉ならば、遠慮なく殺せる。於泉が目覚めたことを知られないために、長可達は於泉と接触することを避けなければならない。


「……そうじゃのぅ」


 奇妙丸が首を傾げた。唇が弧を描き、目が細められる。


「三日後、参れ。年が明ける前に、遠乗りでもしようか」

「……雪ありますけど?」

「たまにはよかろう。ああそうそう、庄九郎にも声を掛けておけ。何があるか分からぬ故、刀の手入れも怠るな」

「……若。つまり、ケリをつけるということですか?」

 奇妙丸は笑みを浮かべたままだ。踵を返して屋敷に上がったので、後を追う。しかし、奇妙丸が向かったのは、政務室ではなかった。


 書庫である。


 書庫の奥、山積みになった本の向こうに庄九郎がいた。

「若、それに勝蔵も」

「人は来ておらぬか」

 庄九郎が頷くと、奇妙丸が腰を落とす。長可が戸を閉めると、室内が薄暗くなった。筆を置く音と、紙が動く音が響いた。暗いのに火がないので見えにくく、突っ伏すようにしなければならなかった。


「焼き捨てられていなかったのが幸いでした。もう10年以上前のことですし、なかなか古くなっていますが……」


 庄九郎が置いたのは、雑記帳だった。誰かの日記らしい。随分昔から書かれていたのか、分厚い。見つけ出した庄九郎自身、まだ読み終えていないようだった。


 男の文字だった。記され始めたのは、天文14年(1573年)頃から。まだ拙い少年の字だった。度々「吉法師きっぽうし」「三郎さぶろう君」という名、それに次いで「勘十郎かんじゅうろう」の名が登場する。

 拙い文字は「吉法師」が「三郎君」という名に変わっていくごとに、達筆に成長していた。


「父上の臣下のものが書いたのか?」

「さあ、分かりません、そこまでは。何分ところどころ読めなくされているので……。ですが、御屋形様に近しい者が書いたのは間違いないのでしょうが……」

「勘十郎、ということは死んだ信勝叔父上のことだな。父上にも近しく、叔父上にも関わった者というと……権六ごんろくか、河尻の爺か……」

「柴田殿や河尻殿ってことはないんじゃないですか?」

 長可は紙を捲り、最初の方に戻った。ところどころ間違った拙い文字に。適当に開いた場所は、「勘十郎殿が御前様に新しい衣を仕立てていただいたそうだ」と、書かれていた。そして、「吉法師様には何もない」とも。


 この文字は、幼い。柴田勝家や河尻秀隆ならば、もっと大人の男の文字を書くだろう。それに、家臣と限ったわけではない。一門衆や異母弟達という可能性もある。


「範囲を広めるなよ」

 奇妙丸から飛んで来た八つ当たりのように蹴りを、長可は軽々と交わして見せた。


   ◇◆◇





 勘十郎様から、白梅の枝をいただいた。勘十郎様は、幼い頃から本当は白梅がお好きらしい。母御前様が華やかな紅梅を好むので合わせているらしいが、勘十郎様自身は白梅に憧れるのだそうだ。


 先日、吉法師様への感情を打ち明けられた。吉法師様のことを嫌ってはいないし、尊敬もしている。しかし、時折兄が恐ろしい、とも。織田弾正忠家の行く末を兄に託して本当に良いのかと。


 大丈夫だと答えたし、吉法師様ならきっと良き武将になる。大殿がうつけと呼ばれる吉法師様を後継として据えられたのも、誰にも図れない器を見抜いておられるからだ。


 しかし、俺自身は少しだけ、勘十郎様の不安も分かる。勘十郎様は、よくも悪くも凡百な御方だ。計り知れないというのは、どうあっても理解できない。たとえ父母が同じでも、勘十郎様にしてみれば、吉法師様は近寄りがたいのだと思う。


 一度腹を割って話をしたり、俺のように行動を共にしたりしてみれば、気持ちが通じ合うこともあるのだろうが……御前様とともに末森に住まわれているなら、難しい話だ。





 三郎様が奥方を娶られた。美濃国主である蝮殿の娘で、婚儀の際にお会いしたが、蝮の娘と思えぬ佳人だった。


 御前様は今度、躍起になって勘十郎様の奥方を探されているらしい。勘十郎様はようやく元服されたばかりなのに、気が早い話だ。しかし、織田家が有力な家と繋がりを持つためには必要なことだが、いくらなんでも御前様は口を出し過ぎではないだろうか。他の御子に対してはここまで過剰ではない。勘十郎様がご自身のことを決められない御方にならないかが心配だ。





 勘十郎様が新しく側室を迎えられたと聞く。木田城の荒尾殿のご息女で、元々は信時殿のご正室だったらしい。娘御ともども織田家に残ることとなったそうだ。美しい人ではあったが、どうにも勘十郎様とは反りが合わないらしく、いつも俯きがちだった。お二人の仲が少しでも睦まじくなられれば良いのだが、見守る以外に術はない。






 勘十郎様が殿に謀反を企てているとの報せが届く。多勢に無勢ながらも、殿の圧勝で戦は終わった。しかし、どうにもこれで終わる気がしない。


 すこし前、同母弟の秀孝様が誤って殺害されている。殿と勘十郎様、お二人の間では秀孝様を殺害した者への始末への意識の差異がきっかけのようだ。お話されたことで少しは蟠りが解けているといいのだが、難しいだろう。ただ、以前のように俺と言葉を交わしてくれることもなくなった。当然だ。もう幼馴染ではいられない。俺ははっきりと、殿の側に回ると決めたのだから。


 それにしても、あの男が気になる。勘十郎様の若衆。あの男の目は、織田家にとってはよからぬものだ。









 勘十郎様が美濃と通じていた。二度目はないと、最初からそういう約束だった。それなのに、どうして。










 殿からの命が下った。末森城に今日、報せを届ける。勘十郎様を弑さねばならない。


 末森城で、奈弥殿が話を聞いていたようだ。もしかしたら、彼女のことも斬らなければならないのだろうか。




   ◇◆◇



 信勝の暗殺予告を最後に、日記は終わっていた。庄九郎が痛ましげに眉根を顰めている。


 奇妙丸は雑記帳を庄九郎の手元から取ると、衣の合わせ目に差し込んだ。


「これ――預かってもよいだろうか。もう少しじっくりと、読んでみたいのだが」


「構いませよ。ただ、人目にさらされることがありませんよう。一応、持ち出しを禁じられた書物ですので」


 奇妙丸は気軽に頷くと、部屋を出た。


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