乱離拡散【拾禄】


      *


 長可ながよしはぼんやりとしながら庄九郎しょうくろうの横顔を見た。

 庄九郎は長可から目を反らすように筆を動かし続けていたが、ふと手を止めて体ごと振り返った。

「礼を言うのを忘れていた。薬だが、効き目はいいらしい。喜んでいたようだ」

「ああ、そっか。それは良かった」

 長可はほっと息を吐いて笑みを漏らした。効き目に関しては事前に熟知していたつもりだが、実際に喜んでもらえたと聞くと、胸の裡が温かくなる気がした。

「庄九郎は、於泉ともう会ったのか?」

「いや、会っていない」

 庄九郎は寂しそうに睫毛を伏せた。


「まだ、誰とも会いたくないと言って……。柚乃と鮎しか部屋に入れていないんだ」


 亡くなった供の中には、於泉が生まれた時から世話をしてくれていた乳母もいたと聞く。自分の置かれた立場だけでなく、乳母の死を知らされた於泉の胸中を考えれば、致し方ないことなのかもしれない。


 それでも今は少しずつ気力を取り戻し、粥を啜ったり、髪を梳かせたりと、動けるようにはなっているようだ。薬師の見立てよりも早く、於泉の顔を見る日は近いのかもしれない。


 於泉がまた、呑気に垣根越しに顔を覗かせてくれるように――長可は拳をきつく握り締めた。

 大切な相手が遠くに行くのは、もう御免だった。


(強くなりてぇなぁ……)


 漠然と、そんなことを願わずにはいられなかった。



   ◇◆◇



 塗り潰された墨の上を、指の腹で撫でる。目を凝らしても、燃える寸前まで紙に火を近づけてみても、なかなか墨の下の文字を読み取ることはできない。よほど濃く擦りだした墨を使ったのだろう。あるいは、元の紙が潰れてしまうほど塗りたくったのか。


 いずれにしても、充分過ぎるほどの墨は、発禁という効果を発揮していた。


(しかし、なぁ……)


 信長に近く、信勝にも近かった相手――となると、大方の予想が付く。そして、庄九郎の意味深な横顔も。

 長可は――阿呆だし、犯人がどうであろうと、きっとあの男には関係ない。立ちはだかる敵は誰であろうと斬り捨てる。きっと、長可はそういう男だ。だから、何も奇妙丸きみょうまるは気にすることなく、長可のことを使えばいい。


 はっきりとした確証があるわけでは、ない。しかし、それは遠乗りの時に見つける気でいた。


 奇妙丸は、開いていた雑記帳を閉じる。思い起こされる、緊張感。背中にぷつぷつと浮かぶ脂汗。

 湧き上がる戦慄から目を反らすように、水差しに手を掛け、茶碗に水を注ぐ。一気に煽った水は冷たく、奇妙丸の高ぶった熱を沈めてくれた。






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