乱離拡散【拾質】


      *


 庭に降りると、あゆは息を吐きだした。

 吐息は真白く、指先はかじかんでいる。身震いしながら、鮎は梅の枝に近付いた。まだ、枝は蕾のひとつも付けていない。


(梅が咲く頃には、姉様も歩けるようになって……一緒にお花見ができたらいいな)


 於泉おせんは意識こそ戻ったものの、まだはっきりと意思の疎通が取れるまでには至っていない。常に生気がなく、ぼんやりと遠くを見つめ、時折眦を濡らすばかりだ。粥さえも飲み込もうとしないため、鮎と柚乃ゆずの、2人がかりで口をこじ開け、根気強く飲み込ませなければならなかった。

 侍女達は、於泉の世話を鮎にさせまいとする。仮にも池田家の二の姫が、姉とはいえ、看病の一切を引き受けなければならない謂れはない。最も、於泉が拒んだところで、鮎はこの役目を他人に託す気はなかったのだが。


 解いたまま、後ろに流していた髪を紐で結わえる。寝ずの番を引き受けてくれた柚乃を、そろそろ寝させてやらなければならない。


 肩からずり落ちた小袖を羽織り直してから縁を上がろうとすると、人の気配を感じた。



「よお」


 垣根の向こうに立っていたのは、隣に屋敷を構えている森勝蔵長可もりしょうぞうながよしである。


 父や兄、姉とも親しいので、池田屋敷にもよく出入りをしているから、初めて会うというわけではない。しかし、目は獣のように釣り上がって歯も鋭くぎらぎら光り、恐ろしい形相だ。性格も、裏表がないと於泉は評価しているが、単にいつ何時も凶暴性を隠していないだけではないだろうか。

 その上、人間としては有り得ないくらい大柄で、両親に似ず背が高い於泉の頭三つ分は大きい。鮎にとって、森長可とは畏怖の対象であった。


 そんな風に怯えている鮎のことなど気にも留めず、長可は垣根に肘を掛けた。


庄九郎しょうくろうはまだ起きてねえのか? 俺、そろそろ先に行くぜ」

「あ、兄でしたらもうお城に行きましたけど……。何か、御用でもございましたか? よろしければ、お言付け、お預かりしますけど……」

「いや、行ったんだったら、それでいい。朝っぱらから悪かったな」

 水臭ぇ奴だなぁ、などとぶつぶつ文句を言いながら、長可は踵を返した。

 ようやく気配が離れようとしたのでホッとした鮎だったが、長可が急に足を止め、「そうだ」と振り返ったため、飛び上がる羽目になった。


「於泉は、どうだ」


 急に姉の名前を出されたのは、鮎にとっては意外だった。

 槍にしか興味がない乱暴者で、城下の女子供の間では「血肉を食らって生きていてもおかしくない」という伝説が生まれるほどだ。この獣の操縦ができるのは奇妙丸きみょうまるだけと専らの評判である。

 そんな男に姉が心を寄せているというのは、鮎にとっては理解できない気持ちであり、危険だからやめておけ、という懸念もあった。


 しかし、長可もまた、しようもない口喧嘩ばかりしつつ、姉のことを気に掛けてくれていたのだろうか。


重湯おもゆを押し込んで、なんとか食べてもらってます。まだ、傷の治りが遅くて……」

 戸板に乗せられて来た於泉は、首元や腹部、胸の辺りなどを何か所も刺されていた。本来ならば動かしてはいけなかったのに、父は報を受けるなり、すぐに連れ戻すように命じ、却って傷が悪化していた。

「でも、すぐに良くなります。私、心を込めてお世話しますから……!」

「そうか、ならいい」

 長可に向けられた表情に、鮎は目を見開いた。

「元気になったら、金山まで顔を見せに来い。――って、於泉に伝えてくれるか」

 鮎が頷くと、長可は満足そうに笑って、今度こそ背を向けた。


(意外)


 そういえば先日――庄九郎から、刀傷によく効くという軟膏を貰った。ひょっとしたら、あれは長可からのものだったのだろうか。


 乱暴者あるけれど、噂に聞くよりも、他人に気が使える人らしい。そして、於泉はその琴線に引っ掛かったのだろうか。

 隣家から聞こえ始めた、早朝とは思えぬほど騒がしい声々に一瞬顔を顰めつつ、鮎は隣人への評価を改めた。

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