忍ぶれど……【弐五】


      *


 魚に餌を撒きながら、水面みなもひれが舞うのを眺める。袖の下には、慣れた重みがあった。


 少し離れたところから、人の気配が近付いて来る。振り返ると、思った通りの人物が立っていた。


「あら」

 さも今気が付いた風を取り繕う。

「池田様。本日はどのようなご用件で?」

 今日は、奇妙丸が帰蝶に会いに来る予定は聞いていない。文を届けに来た、というわけでもなさそうだ。

「今日は、若のお使いじゃない。少しだけ、暇をいただいたんだ。……君に、会いたくて」

 意外な申し出にふみは目を丸くした。

「これを、おふみに……」

 庄九郎がふみに包みを渡した。布の中に入っていたのは、白粉である。

「見た限り、だいぶ赤身は引いたみたいだけど……念のため、隠すのに使ってもらってもいい。厭なら、捨ててくれ」

「捨てません」

 ふみは頭を振った。

「有り難く、頂戴致します」

 ふと、庄九郎と視線がかち合った。

 庄九郎の頬に、赤みはほとんど見られない。やはり女子と見間違みまごう美少年と呼ばれても、肌の質まで繊細というわけではないのだろう。


 包みには、夕顔の花が刺繍されている。


「綺麗」

「この間、どくだみの薬を塗ってくれただろう」

 ふみが引っ叩いた翌日のことだ。

「その時、薬入れの表面に、夕顔が描いてあったから……だから、それに包ませた。好きなのかと思って」

「ええ」

 ふみは頷いた。

「夕顔は、私が1番好きな花です」


 平安の頃――光の君にも愛された花。


 夏の夕焼けの下で花を咲かせ、一夜の間にしか生きられない。朝の間に萎んでしまう、儚い花。


 夏にしか花を付けないのに、まるで雪のように白い。


「雪みたいだ」


 一瞬、言葉が口から出てしまったのかと思った。しかし、口を開いたのはふみではなく、庄九郎だった。


「夏の花だけど、花は白くて、……溶けてしまいそうなほど、儚くて。……夏に降る、雪なのかもしれないな」

「冬の精の悪戯なのかもしれませんね」

「俺も、好きだな。今まで花なんて気にもしなかったけど」

 武家の子息である庄九郎なら、常に庭には手入れされた花が咲き誇っているのだろう。

 於泉の部屋にも、梅の木が根を張っていた。


(この方なら……白梅よりも、紅梅の方が近い気がする)


 花は紅梅、香りは白梅と言うように。

 庄九郎は、そこにいるだけで分かる。見た者の心を惹き付ける、深紅の花だ。


(不思議……)


 ふみは餌を入れていた鉢に爪を立てた。


 梅の咲き時は、春。もうすぐ冬の時期に咲いている紅い梅は、狂い咲きだ。


 本来なら花を零していなければならないのに、まだ零れないでほしいとさえ思う。狂って咲こうとする花は、正しい時期に導けばいい。

(だめ)

 ふみは目を顰めた。

 ふみが支えるべき相手は、護るべき相手はたった一人だけ。


 庄九郎は敵でなければならないはずだった。


「ふみ」


 不意に名を呼ばれ、打たれたように顔を上げる。


「……ってどういう字を書くんだ?」


 庄九郎の指先が空で文字を書いている。「ふみ」、と。ふみが地面にしゃがむと、庄九郎も同じようにしゃがみ込んだ。指先で地面に「鯉」という字を書く。


「たぶん……こうだと思います」


「たぶん?」


「鯉、という字は……『ふみ』という意味があります。だから」


 物心ついた時、母は別の名で呼んでくれていた気がする。しかし、母と引き離されてからは、兄弟も父も、主が付けた「鯉」という呼称で呼ぶようになった。今では、昔呼んでくれた名を思い出すこともできない。

 ふみは物心がついてすぐに母から伯父のところに引き取られ、実家に戻った時には母がいなかった。そして、今に至る。帰蝶と交友が始まったのは最近のことなので、帰蝶もふみの真名を知らない。


「ふみ」という名も、無論真名ではない。ただ、都合がいいから、帰蝶に聞かれた時に咄嗟に名乗っただけに他ならない。その時の務めごとに仮の名など捨てればいい。


 池の外には、出られないのだ。


「……雪」


 庄九郎の唇が揺れた。余程、夕顔が気に入ったのだろうか。


於雪おゆき


 庄九郎が今度ははっきりと言葉にした。それが人の名であるということ、それも自分に与えられた名であるということに気が付いたのは、少し間が空いてからだった。


「於雪」


 戸惑っていると、もう1度、庄九郎は同じ名を呼んだ。


「ふみ、は仮の名で……由来を聞いても、俺はあまり好きにはなれないな、と思って」

「それで、雪?」

「……色白だし、夕顔が好きだと言っていたから。俺は、君をそう呼びたい。……厭なら、これまで通り」

「厭じゃありません」


 はっきりと言い返した。


「雪――と、名乗って良いのですか」

「……厭じゃないなら」

「では、喜んで」


 泣きたくなった。はにかんだ少年の持つ心の灯に気が付きたくなかった。


 自分の心に咲いた蕾の存在にも。


(刀を持っていない時、あなたは優しい……残酷なくらい)


 行き場のない想いを抱いて、立ち尽くす。


 生まれて初めて自分のものにできた名は、本当は何より不必要なものだった。


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