梅林止渇【拾】
*
ぼんやりと、縁に座って月を見上げる。欠けたところなど何一つないはずなのに、満月は、ただでさえ不安に陥りがちな心をより一層不安に駆り立てる。
ここ最近、色々な人と出会っている気がする。
新八郎に、勘重郎。三七。つい先日は、久方ぶりに母方の祖父である善次にもあった。
初めて会う相手と、久方ぶりに会う親しい身内。皆それぞれ変わろうとしていた。
目まぐるしい変化に対応しきれず、眩暈がする。13歳を数えた途端に上京が変わっているのは、於泉が傍目にも童女ではなくなったからなのだろう。
鏡に映る姿は13歳にしては、子供の時期を抜け出し切っている。
現実を突き付け、理想を奪う。だから、鏡が嫌いだった。
「於泉」
闇夜を遠慮気味に響く、低い声。胸を熱くしたのは無意識だった。
於泉は草履を引っかけると、垣根に駆け寄った。
「夜更かししてんじゃねーぞ」
悪戯気味に、2つ上の幼馴染が口角を釣り上げた。
「……そっちこそ」
於泉は、頬を膨らませた。
人のことを咎めて来る長可とて起きているのだから、お互い様だ。
於泉は垣根に顎を乗せ、首を傾げた。
「お腹が空いた」
「夜更かししてるからだろ。水でも飲んどけ」
「水なんかじゃ膨れない。何か食べるものとかない? 干し柿とか」
「ったく、しょうがねぇな」
「イモリの黒焼きだけは絶対に御免よ」
すかさず咎めると、長可は「ちっ」と舌打ちした。
「残念だが、今切らしてる。代わりに、若に貰った唐菓子、恵んでやるよ」
於泉はイモリの黒焼きが不在であること、そして長可に唐菓子を与えてくれていた奇妙丸に、心の底から感謝した。
長可は輿にぶら下げた巾着から唐菓子を取り出した。
唐菓子は、米の粉を甘葛の汁などと一緒に練り、水菓子の形に練ってから、油で揚げたものである。
長可が持っていたのは、梅枝と言われる種類だ。その名の通り、梅の枝の形をしている。
「綺麗」
梅の枝の形をした唐菓子に於泉は目を輝かせた。
「月、綺麗ね」
於泉は唐菓子を月の光に掲げて見せた。こんがりと茶色に揚げられた菓子が、月の光を浴びて薄ぼんやりと暗みを帯びる。
「ね、勝蔵殿。そっちに行ってもいい?」
「おい……また部屋から抜け出して。庄九郎に怒られるぞ」
「少しだけなら大丈夫。兄上は明日も早いから、もう寝てしまってるわ。少しだけ、一緒に月見しましょ? せっかくの満月なのに、勿体ない」
本当は1人になるのが何となく厭だったからなのだが、そこまで言うのは癪だった。
「仕方ねぇな……」
長可は池田屋敷の方を見渡してから、於泉の体を抱き上げた。そのまま軽々と垣根の上から、自分の屋敷の庭に引き込む。
(勝蔵殿、大きくなったなぁ……)
こうして抱かれてみると、自分ばかりが変わったわけではないことが分かる。
元々大柄だった長可は、日々の鍛錬の賜物か、それとも父親譲りなのか分からないが、より一層逞しさを増した。腕は太くなったし、肩幅も広くなった。世間の女子より頭2つ分は大きい於泉であっても、長可は軽々と抱き抱えることができる。
随分前――唐紅の結布で、初めて髪を結ってもらった時――から、於泉は奇妙丸から、
「お前のことは、勝蔵に嫁がせたい」
と、告げられていた。
恒興が信長の乳兄弟である縁で、池田家は織田家にとっては身内同然である。
庄九郎は奇妙丸の近習であり、長可は奇妙丸が最も信頼してる家臣だ。池田家の娘である於泉を与えることで、奇妙丸は長可とも縁を持ちたいのだろう。
今から7年も前――崖から落ちそうになった時に救われてから、於泉はそれなりに長可を憎からず想ってはいる。
しかし、普段は雑に扱われてばかりなので、夫にするのかと思うと、扱いとしてはいまいちだった。
(何より、勝蔵殿の妻になんかなったら、あちこちに頭を下げて回ったり、文を出しに走らせたりしなければならなくなりそう……)
今でさえ、城に上がる度に大騒ぎを起こしている長可である。長可の起こす問題は、正室の耳にもいちいち届けられるに違いなかった。
勝蔵は於泉を縁に座らせた後、一旦奥に引っ込んだ。少ししてから、茶碗を2つ持って戻って来る。
白磁の茶碗には、薄茶が入っていた。
「
「はーい」
縁に並んで腰掛けながら、唐菓子に齧り付く。
油で揚げた菓子特有の歯触りが心地よい。米の粉を練って揚げた生地からは、甘葛の香りとともに米の甘みが鼻孔を走り抜けた。生地を破った向こうからは、小豆の香りが浮かび上がる。
「美味しい……流石、若がくださるお菓子ね」
「ん。不機嫌は直ったか」
長可が無遠慮に於泉の頬を指で突いた。
「さっき、変な顔してたぞ」
「……そんなに?」
自分では、いつも通りにしているつもりだった。
(勘重郎殿、だっけ……)
於泉は、唐菓子からはみ出る餡を見つめた。
勘重郎は泣きそうな顔で、誰かの名を呼んでいた。於泉の顔を見ながら。
まるで、愛しい誰かを呼ぶような声音だった。
(わたしが誰かに似ていたのかな)
於泉は、勘重郎の顔が忘れられなかった。
「……於泉?」
長可が珍しく心配そうに於泉の顔を覗き込んだ。
「具合でも悪いのか? 屋敷まで送るか?」
「あ、ううん。何でもない」
「ならいいけどよ……」長可は、於泉の額に掌を当てた。於泉の額の熱よりも、長可の掌の方がきっと
「熱はねえみたいだけど……。あんまり無理すんじゃねえぞ。また、荒尾に連れて行かれるぞ」
「それは困る。荒尾には行かない」
於泉が本気で厭そうな顔をすると、長可は声を殺しながら笑った。
「そんなに厭がってやるなよ。爺さん、泣いちまうぜ?」
恒興に負けず劣らず、祖父の善次は於泉を可愛がってくれる。
この間来た時も、荒尾にいつでも戻って来ていい、と言ってくれた。
荒尾に居た頃暮らした、
善次の気持ちは嬉しい――しかし、於泉は荒尾に戻る気はなかった。
「わたし、美濃の暮らし、結構好きなんだ」
幼い於泉の傍にいたのは、祖父母と、乳母の初瀬だけだった。庭より遠いところに行ったことはなく、時折訪れる恒興だけが、於泉を外と繋いでくれる唯一の存在だった。
荒尾を出て、池田家に来て、庄九郎達と出会った。
深窓で育てられた於泉にとって、兄弟達と張り合って生活しなければならないのは、なかなかに面白く、刺激的でもあった。
池田家での生活に慣れた頃に奇妙丸と出会い、長可に出会った。
美濃で手に入れた、掛け替えのない存在だった。
(美濃を出たくない。……それだけで、理由なんて充分だ)
於泉は、長可の方を振り返った。
「わたし、嫁に行くなら美濃の方がいい。美濃は食べ物も美味しくて、海はないけど、豊かだもの。……美濃を出ないって、難しい願いかな」
「目指すだけなら、誰だって自由だろ」
長可は唐菓子の最後の一口を丸呑みすると、薄茶で喉を潤した。於泉も真似をして、唐菓子を薄茶で流し込む。
「……勝蔵殿って、奥方に求める理想はあるの?」
「別に」
長可はごくごくと音を立てながら、薄茶を豪快に飲み干している。熱くはないのだろうか。
「まあ、強いて言えば……俺は見ての通りガサツだからな。できることなら、気を遣わなくていい相手がいい」
「勝蔵殿の暴言で傷付かないような?」
「うん、そうだな。俺の言葉でいちいち泣かれてたら、気まずい」
その点ならば、於泉は問題なく超えられる。長可の暴言は、もう慣れっこだ。
於泉の胸を、締め付けるような感覚が襲う。甘くて切なくて、痺れるような痛みだった。
「若がね」
於泉は、長可の袖を軽く引っ張った。
「若が――わたしのことを、美濃金山の城主・森勝蔵殿に嫁がせたいって、言ってるの」
「は!?」
長可の顔が赤く染まった。もう一押しだろうか。
「わたし、勝蔵殿にだったら、お嫁に行ってもいい。勝蔵殿のお帰りを金山の館でお迎えしてあげるし、勝蔵殿の子を産んであげ――」
「やだよ!」
長可がぷいと顔を反らした。
「何よ、照れてるの?」
「照れてねえよ!! 照れるかよ、馬鹿!」
長可は於泉の手を乱暴に振り払った。
「つーか、要らねえわ! お前なんざ貰っても困るっつーの!! 言い忘れてたけど、俺の1番の好みから、お前は外れてる」
「え?」
「俺は、
無意識だった。
於泉は湯呑を大きく振りかぶると、長可の頭に思いきり叩き付けていた。
湯呑が割れる音と、長可が縁の上に倒れる音は、ほとんど同時であった。
「お菓子とお茶、ご馳走様でございました、森殿! それではおやすみなさいっ」
於泉は唸り声と恨み言を唱える長可はそのままに立ち上がった。垣根のところで裾をたくし上げると、ひょいと乗り越えて、自分の部屋に戻って行った。
*
手鏡を手に取って、溜息を吐く。
「好みから外れている、か……」
村の娘達がどうだかは知らないが、貴人の婚姻に夫婦仲は関係ない。過ごしやすいか否かは個人の感情だ。婚姻には個人の感情は優先されない。大切なのは、家同士の結び付きだけだ。
奇妙丸が行けと言えば、於泉はそれに従う。否、違う。奇妙丸はまだ家督を継いでいないから、家臣の子の嫁ぎ先に口を出すことはできない。
於泉は信長か恒興の命に従うしかない。
手鏡に映る姿は、どう見ても、長可が望む容姿には程遠い。
痩せっぽっちで、背ばかりが高い。女人らしい品やかさなど持ち合わせていない。
(どうして……?)
於泉は鏡に爪を立てた。
年下の鮎は、胸も大きくなり、全体的に体に丸みを帯び始めている。
それなのに、於泉だけが手足が伸びて、胸も膨らまない。少なくとも信長の乳母だった父方の祖母に似たら、豊満な体付きになるはずなのに。
(わたし、父上に似てない……)
目の色は奈弥に似たが、それだけだ。
この家で、於泉だけが髪も、肌の色も、顔形も、1人だけ違う。
「姫様」
初瀬が部屋に入って来た。
「姫様、どちらに行かれていたのですか? 御姿が見えず、心配していたのですよ」
暗闇の中でも分かるほど、初瀬が顔を顰めている。於泉は鏡越しに乳母の顔を見てから、鏡を伏せた。
(鏡は、大嫌い。……わたしのこと、全部見透かして来るから……)
「姫様、早くお褥に入られませ。お体に触りますよ」
「……ねえ、ばあや」
於泉は振り返らず、乳母に呼び掛けた。
初瀬は、於泉の異様な様子に何か気が付いたのだろうか。静かに隣に来てくれた。
「姫様。如何なされました?」
問い掛けられても、うまく返事をすることができない。於泉は思わず立てた膝の上に額を乗せた。
初瀬は何も言わずに、於泉の肩に立て掛けてあった小袖を羽織らせてくれた。
背中を撫でる手付きは、荒尾にいた頃から変わらない。第二の母として、於泉のことを時に厳しく、深い愛情を持って見守り続けてくれた掌だった。
「……ねえ、ばあや」
掠れた声で、顔を上げずに於泉は初瀬に問い掛けた。
「わたし、本当に父上の娘なんだよね……?」
「何を」初瀬は驚いたように言葉を呑んだ。「何を、仰います」
初瀬は於泉の頬を包んで顔を上げさせると、宥めるように笑みを浮かべた。
「姫様は、ご兄弟の中でも、殿から格別寵愛されておりましょう。そうでなければ、わざわざ荒尾まで姫様を迎えになど参りません」
初瀬は於泉を立たせると、夜着を払い除けた。褥の上に於泉を寝そべらせ、夜着を掛けてくれた。
「さ、もうお休みくださいませ。姫様が安心してお休みになるまで、初瀬はここにおりますよ」
初瀬の声音が降りそそぐ。子守唄。怖い夢を見たと言っては泣きついて、怒られて不貞腐れた後も、結局初瀬の膝の上に戻って来た。
困ったことがあったら、いつも初瀬が助けてくれた。
頭を撫でる温かい掌に誘われながら、於泉はゆっくりと眠りの底へ落ちて行った。
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