忍ぶれど……【拾】
*
顔に纏わり付いた鮮血を拭うことさえせず立ち上がる。
「片付けておけ」
家臣達に命じて歩き出すと、政右衛門が追い駆けて来た。
庄九郎が顔を背けることも許さない力で顎を押さえ付け、手拭いでがしがしと拭われる。
「政、痛い」
「黙っててくださいー。あんたが通った後を誤魔化す此方の身にもなっていただきたいですねー」
馬鹿力で拭われて、返り血ではなく本当に擦り傷ができそうだ。
痛みに耐えながら、ぼんやりと細い月が下弦であるのを見とめる。
(この時世、返り血如き、誰が気にすると言うんだ)
池田屋敷の前に血が流れていても、誰が気に留めると言うのだろう。
武家屋敷。事情を秘密裡に抱えているのは、池田家に限った話でもない。わざわざそのことを信長に問い質したり、奇妙丸に進言したりする者もいない。
もうじき、日が昇る。
奇妙丸が目を覚ます前に、庄九郎も城に戻らなければならなかった。
奇妙丸が目を覚ます前に、またいつも通り愛想のない幼馴染の近侍として傍にいなければならない。
湯浴みを終えて着替えを済ませる。自分の部屋に戻るためには、於泉の部屋の前を通らなければならない。
(……ここしばらく、ちゃんと話してないな)
於泉は奇妙丸の部屋によくいる。しかし、奇妙丸は於泉が来るとさりげなく人払いを命じるので、宿直であっても於泉と話す機会はなかった。
ここしばらく、御役目で庄九郎は屋敷を留守にしていることが多かったし、屋敷にいても妹達に構っている暇がなかった。
於泉の部屋の前にいた柚乃に断りを入れ、於泉の部屋の中に入る。
於泉と鮎が夜着の中で包まって寝息を立てていた。鮎が「怖い夢を見た」と駄々を捏ねて於泉の部屋に潜り込んだらしい。
「姫様達は、まこと仲がよろしいですね」
柚乃は愛しそうに目を細めた。幼い頃に、柚乃は病で父母を亡くし、兄に育てられたと言う。
跳ねっ返りが過ぎるほど元気な於泉に比べれば、鮎はおっとりとした空気を漂わせている。家族の前ではしっかりと意見を述べられるのに、来客の前では目線を下げてしまっていた。困ったように眉を下げる様は何とも愛らしく、こちらが手を差し伸べてやらなければ、という庇護欲に狩られる。
恒興と於泉だけではなく、奈弥も鮎のことは可愛がっているようだった。鮎が生まれてからは、沈みがちだった奈弥の気持ちも安定している、と侍女達も話している。
元々心の弱い人ではあったらしい。特に、前夫の死後は喪が明けるか否やで恒興に再嫁させられ、すぐに庄九郎を産んでいる。心の整理がつかなかったのかもしれない。世の習いと雖も、奈弥の気持ちを考えれば、仕方ないことでもある。
於泉が幼い頃、親元を離れて荒尾家に置いておかれたのも、恒興の妻への配慮なのかもしれない。
(でも……その結果、於泉は兄妹の中で、1人だけ母上と心が離れてる……)
於泉のせいではないのに、母から感情的な拒絶を受けるのはあまりにも哀れだった。
初瀬が時に厳しく、愛情深く於泉を養育してくれなければ、確実に荒れていただろう。初瀬には感謝しかできない。
乱れた夜着を肩まで掛けてやりながら、廊下に出る。
「若様は、これからお出掛けですか?」
「ああ。妹達のことは頼んだぞ」
柚乃の見送りを背で受けながら、城への道を歩く。
鉄扇がいつもより重さを感じる。
湯を浴びた直後だと言うのに、体中から、血の臭いが沸き上がったような気がした。
*
奇妙丸の背後に付き従い、黙々と帰蝶の御殿へ続く道を歩く。
ふと目を反らすと、しゃがみ込んで池の魚に餌を撒いているふみの姿が見えた。
「あ……」
無意識に漏れた吐息は、誰かに届くほどの声量ではなかったはずだ。
しかし、奇妙丸は耳聡かった。
「あの娘は……
奇妙丸が口角を持ち上げ、目を綻ばせた。
「浮いた話もなかったお前が珍しいな。ああいう女子が好みか」
「ち、違っ」
「良い良い。なかなか美しい女子ではないか」
くくっ、と奇妙丸が喉を鳴らす。普段張り付いたような笑顔ばかり浮かべがちな主君にしては珍しい、心からの笑顔だった。勘違いで揶揄われているのが面白くないが。
「お前とて、元服した身じゃ。気に入った女子の1人2人、いてもおかしくはなかろう。於泉達には黙っておいてやるから、挨拶でもして来るといい。義母上への用が終わり次第、呼びにやる」
「ですから若、誤解です」
「よいよい、気にするな。好いた女子には、会えるうち、言葉を交わせるうちに交わしておけ」
邪険に追い払うフリをされては、それ以上食い下がることなどできるはずもない。
「会えるうちに」それは重い言葉だ。奇妙丸が言うからだ。
池の縁にしゃがみ込む月光色は、水面を見つめていた。魚を見ているのだろう。しかし、瞳の動きはどこか朧げだった。
――このまま、遠くへ泳いで行ってしまいそうな。
無意識に庄九郎は、肩を掴んでいた。折れそうなほど儚げに見える肩は、衣の上からも分かるほどしっかりとしている。
「池田様……?」
「あ、すまぬ」
嫁入り前の女子に、承諾もなしに触れるなど言語道断だ。庄九郎が素直に詫びると、ふみは笑みを浮かべた。
「いつも、ここにいるな」
初めて会った時も、ふみは鯉に餌をやっていた。
「魚、好きなのか?」
「魚を見ていると、安心するんです」
ふみは餌が入っている鉢を足元に置いた。
「海や、川辺の生まれなのか?」
「いいえ。生まれたのは、京で、育ちは美濃です。幼い頃、伯父の元に猶子にやられていたので……」
ふみは京で生まれたが、物心が付いて間もない頃、母の
義龍の嫡男・龍興の妻にするために。
ふみが猶子に出された頃、織田家と斎藤家は敵対関係にあった。義龍が存命ならば、信長は美濃を手にすることはできなかったほどの強敵だ。
義龍が没し、斎藤家が滅び、なし崩しにふみは実家に戻されたのだろうか。そして、ふみの父君は織田家に付くために、ふみを帰蝶のところに預けたのかもしれない。
「ご両親は、お元気か?」
「いえ……父は幼い頃に亡くなったと聞いております。母も、流行り病で……」
「そうか。それは、失礼なことを聞いた」
「いいえ。父と言っても、顔も覚えておりませんし、母とて同じことですから」
「兄弟は? いるのか」
「そのようなこと、あなた様が聞くほどのことでもございますまい」
ふみが顔を伏せた。急に声が冷たくなった。
「あなたは、若殿の近侍。若殿に関わる者については、その気になればいくらでも調べ上げることができるでしょう。……わざわざ私の口からお伝えする必要があるのですか?」
「あなたの口から聞きたい」
周りから聞いた
自力で掴んだ
そして、本人から直接聞いた
これらは同じものの時もあれば、非なるものの時もある。
同じ結論に辿り着いたとしても、辿り着くまでの間に子となる経路や受けてのとらえ方で変わって来る。
そういった情報を1つ1つつなぎ合わせて行くと、結果的に全く違う答えが見えて来ることもある。
これまで、そうやって来た。
幾重にも情報の網を張り、謀略に謀略を重ね、そして――
「そして、確信を得たらその相手を殺すのですね」
ふみの目が見られなかった。
「以前、私が申し上げたことを覚えておいでですか」
『もし私が敵として相対すれば、あなたは私を殺すのですか』
『今から人を殺し続けてどうするんです?』
『天下布武というのは、弱き者のためにあるのでは?』
『弱き者のためと謳いながら、あなた方は人を斬るなんて。あなた達に斬られた者にだって、親やきょうだいはおられるのではないのですか』
『あなたが「人を斬る」理由――それを見つけ出したら、その時忘れて差し上げます』
「答えは、見つかりましたか……?」
答え、など。見つかるわけもない。
庄九郎達が考えるのは、織田家の安寧だ。
信長が天下に武を布き、奇妙丸が誰もが笑って過ごせる世を創る。
そのためには、足並みをそろえなければならない。
歯向かうものがあれば、力づくで捻じ伏せる。
話し合いだ和睦だ、そんな綺麗事だけで建てられるほど、天下人の座は近くにはない。綺麗事だと断じられないで済む世界など、まだ遠く存在しない。
「織田家の確固たる立場を築く。そのために、邪魔者は斬り捨てる。何人たりとも。……俺は、そのために、いる。それはあなたとて同じだろう」
「何のことでございましょう」
「とぼけなくていい」
庄九郎は手を伸ばした。ふみは逃げなかった。艶めく黒髪を指で挟んだ。
珍しい輝きを浴びる黒髪。
華奢に見えるが、鍛えているのが分かる肩。
見覚えのある、後ろ姿。
(この者は、半月前の……草だ。若を、殺めようとした)
初めて会った時、まさかここで再会するとは思わなかった。
帰蝶の姪が何故、あの日奇妙丸を殺そうとしたのか。
「奥方様の差し金か」
「そんなことありません」
ふみは不快感を隠さない鋭い視線を向けた。
「奥方様は、私の伯母に当たるのは事実。……ですが私が織田の姫になることはありません。私の主と奥方様は、顔を合わせたことさえありませんから」
「ならば」
ヒュンッ、と風が切れた。庄九郎の喉元に苦無の切っ先が当てられる。少しでも動かせば、ぷつりと肌を破り、赤い雨を一面に降らせることができる。
「この苦無、動かしてみろ」
ふみの双眸から光が消える。月も星も、何もかもが夜闇に包まれたかのように。
庄九郎の瞳もまた、同じように濁っていた。
「何故、鉄扇の一つもお出しにならない」
ふみの声が低くなった。作っているのか素のものか、そこまでは判断し兼ねる。
庄九郎は先程から微動だにしない。真っ直ぐと、射抜くような視線をふみに向けている。
「言ったはずだ。若に危害を与えぬならば、俺には関係ない、と」
「ご自分がこの場で殺されても構わないと言うのか。――余程、私のことを舐めているらしいな」
「舐めておらん。――が、奥方様のお庭を、血で穢す気か」
ふみがはっと息を呑んだ。
奇妙丸の小姓がこちらに近付いて来る。庄九郎は立ちあがった。ふみはさり気なく苦無を隠した。
「三日後、子の刻に」
耳元で囁くと、ふみはいつもの微笑を浮かべた。一礼だけし、真横を通り過ぎて行く。
入れ違いのように、奇妙丸の小小姓がこちらへ駆けて来た。
「池田殿、若殿がお呼びです」
「ああ、分かっている」
気配は、互いに反らさない。――どちらかが先に反らすまで。やがて、各務野に呼ばれたふみが屋敷の中に入って行くのが見えた。
「若の下へ戻る。呼びに来てくれてありがとう」
庄九郎が礼を言うと、小姓の頬が紅潮した。くしゃりと頭を撫でながら、
「早く行こう。若をお待たせしてはいけない」
「――はい!」
ふみへの対策は、今夜だ。この後庄九郎は何事もなく奇妙丸の御前を辞し、何事もなく帰宅し、寝たふりをしなければならない。
当たり障りのない会話を小小姓に投げ掛けながら、庄九郎は睫毛をそっと伏せた。
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