乱離拡散【質】


      *


 庄九郎が廊下を歩いていると、背後から人の気配を感じた。

 振り返ると、於雪が立っている。いつもの通り、帰蝶からの文を携えて来たらしい。受け取ろうと手を伸ばすと、於雪の眉の間に皺が寄っていることに気が付いた。

「どうした? 具合でも、悪いのか?」

「……奥方様に、お聞きしました。於泉様のご一件……なんとお言葉をお掛けしたら良いか……」

 於雪は何度か、於泉と顔を合わせたことがある。庄九郎は伸ばした手を於雪の肩の上で弾ませた。

 帰蝶の侍女である於雪もまた、真相を知っているのだろう。

「何も、言わなくていい。於泉も、承知の上で行ったんだから」

 きっと、於泉がこの場にいたら――あるいは目を覚ましたら、そう言い切るだろう。


 本当は、痛くて苦しいはずだ。しかし、於泉は本当のところでは、これから先、誰にも弱さを晒すことはない。そういう娘にさせた。

 自らの、宙吊りになった出生や立場を包み隠して、美濃を出て行くと決めたのだ。そんな決意を、周囲が勝手に哀れに思うことは許されない。


 それよりも、問題は花嫁行列を襲撃した者達である。


 信長故人への恨みから来る犯行なのか、あるいは、織田家そのものへの怨嗟か。後者であれば、奇妙丸にまで危害が及ぶかもしれない。そうなる前に、何としても食い止めなければならないのだが、大人達の手を借りることができないというのは、存外骨を折ることになりそうだった。


 庄九郎が思案している横で、於雪が長い睫毛を伏せた。


「……奥方様が、心配されておりました。若殿のこと。


 お伝えください。もし、無理だと思われたら、無茶はせず、奥方様のところにいらしてください、と。奥方様の口から、御屋形様にお執り成ししてくださいます。


 お若い方々が、腹を斬られることはないのだ、と」


「……分かっている」

 無謀な挑戦だということは、重々承知。もし仕損じれば、奇妙丸は廃嫡され、長可と庄九郎も責任を取らされることになる。

 しかし、ここで逃げるわけにはいかないのだ。

 於泉への罪悪感のためだけではない。出る杭は、早く打っておくに限る。

「……池田様が、危ない目に遭うことは、正直嬉しくありません」

 於雪が拳を握り締め、上目遣いに庄九郎のことを見つめた。

「でも、私でよければ、いつだってお力になりますから。遠慮なく仰ってください」

「そうか。……なら」

 掌を伸ばして、頬に触れる。目線は相変わらず、ほんの少しだが於雪の方が上にある。夕顔のように、真白い肌。指の背を擽る髪は、柔らかくて艶がある。


美濃ここに、ずっといればいい。奥方様にお仕えして、幸せに、穏やかに暮らす君を見ることができたら、俺は充分救われるから」


 於泉には、犠牲を強いることは、歯を食いしばれば堪えることができる。それなのに、於雪にだけは、できなかった。


 於雪はいつか、本当の主君のところに戻ってしまうのかもしれない。そんな不安や儚さを常に持ち合わせている。


 京になど帰るなと、そう言えたらどれだけいいのだろう。


 もし仮に、於雪が庄九郎の望みに頷いてくれたなら、それは天に昇るような心地なのかもしれない。


 文箱を抜き取り、重なり掛けた手を離す。

 於雪からはまだ何か言いたげな気配を感じ取れたが、庄九郎は意を決して振り返らずに歩き出した。


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