乱離拡散【弐壱】


   *


 水を交換した桶を手に部屋へ戻ると、褥の中が空になっていた。代わりに、縁側で、肩に小袖を羽織った於泉おせんがぼんやりと、庭を眺めながら座していた。

 柚乃ゆずのは桶を褥の隣に置くと、縁の方に近寄り、ずり落ちかけた小袖を掛け直してやった。

「姫様、お風邪を引いてしまいますよ。あまり、長居はされませんよう」

「…………」

「本日は、いつもよりお顔の色がよろしいですわね。水菓子か唐菓子か……お持ちしましょうか?」

 於泉は小さく頭を振った。横に。

 於泉の食欲は戻ったわけではない。しかし、あゆが押さえ付けてでも強引に食べさせているお陰か、顔色自体は悪くない。薬師くすしにも栄養状態に問題はないと言われていたため、柚乃も無理強いはしないことにした。


「今日は比較的暖かいですねぇ。雪も、降っていませんし。歩けるようでしたら、後でお庭に降りてみますか?」

「…………」

 於泉が頷いた。今度は、縦に。

 元々、姫らしからぬほど動き回ることは好きな少女である。これまで寝たきりだったことを思えば、僅かに口元を綻ばせながら、外に出ようとするのは良き変化であった。


 嬉しくなった柚乃は「そうそう」と部屋に戻ると、包みを持って来た。

「先程、殿から姫様にと、お菓子をいただきました」

 薬師を見送り、水を替えて来た時である。すれ違いに、恒興から包みを押し付けるように渡された。

 中に入っていたのは、椿餅であった。於泉は以前、冬になるとよく食べるのだ、と嬉しそうに言っていた。そして今年の冬は、柚乃も一緒に食べようと約束した。

「姫様は、お加減が悪くてもこれなら食べられるのだ、と殿が仰せでしたよ。さ、よろしければお一つ――」


「要らない」


 於泉はにこりともせず、硬い声を出した。今は食欲がないからとか、そういうものではない。


「要らない。椿餅は、大嫌いなの。もう、二度と見せないで」


 於泉は立ち上がると、部屋に戻った。褥に倒れ込むと、枕に頭を預けたまま、ぴくりとも動かない。



『椿餅はね、木田にいた頃から……父上がいらっしゃる度に、よくお土産にいただいたの。大事な、思い出のお菓子なの』

『今も時々、父上と2人で食べるのよ。兄上達には内緒で、「於泉は特別だ」って言って。それがすごく嬉しかったなぁ』



 笑顔で、椿餅に込められた思い出を、於泉は話してくれた。今はもう、そんな気持ちはなくなってしまったのだろうか。


 於泉の顔の方に回ると、蘇芳の双眸が静かに歪んでいた。頬を伝った涙が枕や敷布を濡らしている。椿餅を嫌いになった理由について、柚乃はとてもではないが問う気にはなれなかった。

「……包帯を、お取り換え致しますね」

 寝衣の上を脱がせ、首筋に巻かれた包帯を解くと、色が変わっていた。患部を絞った手拭で拭いて確認すると、特に化膿した様子がなく、安堵する。柚乃は小さな壺に入った、美濃の商人から買い求めたという軟膏を手に取った。


(若殿は何も仰らなかったけど……きっと、森様からのいただき物よね)


 素直ではないが、似合いの二人である。此度は災難に見舞われ、なし崩しに消滅してしまったが、もしも於泉が今後誰かに嫁ぐのならば、金山に行ってほしい。

 顔も知らぬ、国も違えた都の公達に嫁ぐことよりも、顔見知りで家族ぐるみの付き合いもある幼馴染の城主にならば、池田家も諸手を挙げて賛同できる。柚乃にしてみれば家臣の娘として主家の役に立たなくとも、平凡な奥方としての幸せこそ於泉に……と願っていた。


(それに、姫様が金山に嫁いでくださったら、私も付いて行くことができる。そうしたら、必ずや……)


 狸寝入りを決め込む於泉の肩をあやすように叩いていると、やがて本当に眠ってしまったのか、呼吸が落ち着いて来た。

 主人の幸福と、悲願を願いながら、柚乃は一刻ほど、鮎が呼びに来るまで、於泉の傍らに寄り添い続けた。

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