梅林止渇【参壱】
*
仏壇の前に座し、御仏に向かって両の掌を合わせていると、戸の向こうから、足音が鳴り響く。奈弥は掌を解くと、戸が開くのに備えて居住まいを正した。
開けられた戸の向こうでは、息子が息を切らしている。昨晩は宿直の番だったため、会うのは一夜ぶりであった。
「庄九郎」
奈弥は眉を動かすこともなく、紅を塗った唇を揺らした。
「そのように、騒がしく足音を立てるものではありません。まさかあなた、若殿の御前でもそのような真似をしているのではないでしょうね」
「母上」
被せるように、庄九郎は母の前に座した。
「母上は――於泉のことを承知しておられるのですか」
「承知、とは」
庄九郎から、目を反らす。
庄九郎は、かつて生んだ子達の中で、もっとも自分と似ている。瞳の色も、髪の艶やかさも。
「誤魔化さないでいただきたい」
庄九郎は、奈弥のことを睨み付けた。
「於泉は――俺の妹ではないのですか」
「……そんなわけ、ないでしょう」
奈弥はわざとらしい溜息を吐いて見せた。
「於泉は、あなたの妹です。私が生んだ――そのような戯言を」
「委細は承知しておりまする」
信長の話は、全て合点が行く。庄九郎は拳を握り締めた。
「……母上が於泉を冷遇していたのは……ご自分の、おつらい記憶を呼び起こされるためですか」
奈弥の肩が揺れた。
奈弥にとって、信長の弟達に嫁いでいた間の記憶は、あまり幸せなものではないのだろう。於泉はまさにその象徴だ。特に、於泉は信長と似ている――信長の弟の、信勝に。
「……御屋形様のことを、お恨みする気は、毛頭ありません」
奈弥は、仏壇の前に戻った。掌は合わせず、真っ直ぐに前を見つめる。視線の先には、仏像が立って居た。
「最初の夫、信時殿。2番目の夫、信勝様。……お2人のことを狂おしいほどお慕いした、などとは申しません。きっとお2人も、深くわたくしを寵愛したわけではないでしょう。なれどそれが、わたくし自身が特段不幸であったというわけでもありません。このような時世です。誰かだけが特別悲劇に見舞うということなどないのです」
その言葉に偽りはない。於泉に告げた、女達の身の置き方に関しても。
それでも、信勝の死後、ひっそり生んだ於泉のことだけは納得できなかった。於泉を見ると、奈弥の心には冬の夜風のような思いが吹き荒れるのだった。
於泉を見ていると、それだけで頭が痛くなる。
於泉が笑う度に、信勝を思い出す。それでいて於泉は、信勝の目で、まるで伯父が乗り移ったかのような遊び方をする。
まるで、監視されているかのような、そんな気持ちになる。
「……信勝様は、ご存じだったのです」
奈弥は目を閉じ、唇を震わせた。
小刻みに揺れる母の肩は細く、小さい。庄九郎は摩ってやりながら、母の苦悩を耳にすることとなった。
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