梅林止渇【参拾】

      *


 草を掻き分け、雪を踏みつけにする音。

 樹木に凭れ掛かった男は、目を見開いた。広がる景色と同様に、男の瞳は冷たく、辺り一面を凍り付かせることができそうなほどだ。


津々木つづき様!」


 男が放った、の声である。男は視線はまっすぐを見据えたままに、報告を促した。


「一刻ほど前、岐阜城から輿が発ちました。恐らく、木田城の方面へ向かうものと思われます」

「左様か。……もう1つ輿が出立したであろう? そちらは如何した」

「木田城を通らぬ輿ですが……。それに、花嫁行列と呼ぶには、いささかみすぼらしい輿にございます」

「なるほどのぅ……。そちらも追え」

 男は目を細めた。

 花嫁のための輿ならば、ある程度豪勢な輿の方が見栄えがいい。見劣りするというのは、外に向けた影武者のつもりなのだろうが――がいかにもしそうな、安直な考えである。

「木田城の方に向かう輿は、乗っておられる姫を奪え。供の者達は、殺しても構わん。それと、身代わりの方の輿は、全員斬り捨てよ。信長への、宣戦布告だ」

 男は川辺に近付くと、掌で水をすくい取った。顔に張り付けたすすあかを落とす。冷たい水なのに、むしろ熱いとさえ感じるのは、体の芯から燃え上がる高揚感のお陰だ。


(ようやく――今日という日が来た)


 15年、待った。信勝を失い、武士の身を追われた男を支えたのは、信長への復讐心――そして、道を誤ろうとしている織田家を正すためという間違った正義感だった。


 破滅に突き進もうとしているのにも気が付かず、準備に時間を掛けた。


 人を集めながら、常に信長の動きを見張り続けていた。


 本当は、信長を倒した後は、信勝の忘れ形見の息子達を後継に推したかったが、3人とも「伯父上には恩義がある」とすげなく断って来た。信長はあろうことか、甥達を誑かし、自らの陣営に加えていたのだ。


 しかし、天は男を見捨てなかった。信勝にはもう1人、娘がいた。表向きは家臣の娘にされていたが、4人の子供達の中で、信勝の面影を最も強く受け継いでいた。


 於泉が、男を産めばいい。


(信勝様のご息女を側室如きに収めるなぞ、許せん)


 於泉が関白家の側室になってしまったら、今度こそ取り戻すことが難しくなるだろう。

 機会は1度――。於泉は岐阜城を発った後、木田城で一夜を明かすという。門を潜る前に於泉が乗った輿を襲撃し、於泉を奪えばいい。


(信勝様、あなた様のお血筋に、織田家の名をお返しいたします)


 欠けた月に向かって、男は固い決意を露わにした。

 

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