梅林止渇【弐七】


      *


 侍女の膝の上で、赤子が寝息を立てている。最近は喃語なんごを口にするようにもなり、母として認識してくれているのか、小さな紅葉を伸ばして来るようになった。

「はーぇ」

 穏やかな風を肌身に感じていると、娘が手を伸ばして来た。

「なぁに、小姫」

 掌を取ってあやしていると、茶碗を持っていた侍女が小さく悲鳴を上げた。

「どうしたのですか?」

「申し訳ございません、御方様」

 侍女が頭を垂れた。

「お茶碗が、ひとりでに……」

 侍女が手にしていた茶碗の、白梅の模様に線が入っていた。その線の隙間から、ぽたりぽたりと薄茶の滴が零れ落ちている。

「そなたのせいではありません。謝ることはありませんよ」

 侍女が粗相をしたわけでもない。慰めながらも、内心では胸騒ぎがした。

 侍女達が片付けてくれるのを見ながら、胸の裡に、厭な記憶がぼんやりと映し出される。


(――前にも、こんなことがあったわ……)


 前夫が家臣に背かれ、腹を切らされることになった時も――湯呑が割れた。


 指先が、震える。


「はーぇ?」


 小姫がきょとりと、瞳を丸くした。

「姫、いらっしゃい」

 腕を広げると、幼い娘はぱあ、と表情を輝かせた。実の父の顔を知らぬ小さな姫は、何も理解わかっていないのだろう。母の胸に顔を埋める。


「御方様、お顔の色が……」

 侍女が不安そうに顔を覗き込んだ。

「あ、いえ……ちょっと朝から気分が悪くて……」

「朝餉も、あまり召し上がっておられませんでしたね」

 心の臓の少し下の辺りが、むかむかと痺れるような違和感を覚える。こみ上げるものを堪えていると、別の局に仕えている侍女が駈け込んで来た。


 夫の正室・高島局たかしまのつぼねの侍女である。


「奥方様がお呼びでございます」


 どうやら、火急の用らしい。高島局付きの侍女の顔は、青い。身なりをさっと整えると、立ち上がる。


「はーぇ」

「姫、母は高島局様と、お話をしにいかなければなりません。どうか、このままお待ちなさい。返って来たら、お手玉を教えて差し上げます」

 寂しそうに涙ぐむ娘をなだめすかし、高島局の部屋へ急ぐ。


 高島局の部屋には、他の側室達も座していた。高島局の目は赤く、泣き出す寸前のようだった。側室達も何事かと、落ち着かないようにそわそわとしている。


「そなた達に、大事な話を、しなければなりません」


 高島局は、歯を食いしばりながら口を開いた。


「我らの殿・信勝様が、謀反の疑いにより、お斬り捨てられました」


 一瞬、間が空いた。誰もが意味を理解できなかったのだ。


 やがて、言葉の意味を理解すると、側室達の幾人かが一挙に、嗚咽し、泣きむせぶ。

 すすり泣く女達の声を聞きながら、脳裡に言葉の真意を浮かべた。


(殿が……勘十郎様が、お亡くなりに……?)


 視界が歪んだ。まっすぐに、座っていることができない。

 狂おしいほど恋慕った、というわけではなかったし、真名を呼ばせていただくこともなかった。しかし、連れ子とともに訪れた自身を受け入れ、息子を1人儲けた間柄である。情がないわけでもなかった。


 これから、自分はどうなるのか。再び織田家のいずれかに嫁がされることになるのか。息子は変わらず遇されるのか。娘の生活はどうなるのか。自分は、実家に帰されるのか。


 何より――、


「御方様っ」


 侍女の悲鳴を耳元に聞きながら、そのまま意識を保つことができず、音も立てずにその場に崩れ落ちた。

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