梅林止渇【弐八】


      *


「……儂には、同母弟おとうとがおった」


 信長の声が、低く、響く。

 於泉は震える指先を打掛の袖の下に隠しながら、視線を凍り付かせたまま、息をひそめた。悲鳴を上げようものならば、目の前の鷹の如く鋭い眼をした男に、射殺される気さえした。


「儂を生んだ母は、儂のことを心の底から厭うておった。代わりに、弟のことは溺愛し、父上の後継に、と思うようになっていたらしかった」


 唐突な昔語りが成され始めた時、膝が重なりそうなほど、距離が近くなっていた。


「儂は、『うつけ』と呼ばれ、後継の資格なし、と陰口を叩かれておった。一方、弟はちごうた。色白で美しく、儂と違い、子分を引き連れ、野山を駆け回ることもしない。母を筆頭に、当時は権六達も、儂よりも弟の方を当主にすべし、と言った」


 丸めた瞳は栗鼠りすのように、くりくりと動き回っている。血に濡れた瞳の奥底に、凍て付いた闇に似たものを於泉は感じ取った。


「家中は、割れた。儂と弟は、普段から仲が良かったわけではなかったが、悪かったわけでもないのだが――仕方あるまい。儂も弟も、織田弾正忠家の名を他の者に譲る気はなかったのでな。その結果、戦を起こし、儂が勝った」


 信長が於泉の眼前で自分の掌の上に、手刀を落とす仕草を見せた。


「一度目の謀反は、許してやった。母がどうかと頼んで来るのが鬱陶しかったのもある。しかし、弟は先程申した通り、頭が良く、顔も美しく、女子衆にも人気があったのでな。利用価値があると思うて、生かすことにした」


 心臓が、ばくばくと音を立てる。

 生唾をごくり、と飲み込みながら、主家の主を見据える。


「儂には他にも、異母弟おとうとがおる。信時と言うて――信時のことは、そなたもよく知っておろう?」


 信長の異母弟であると同時に、奈弥の前夫に当たる。信長が同母弟・信勝と争った時には、信長の味方となっていたと言うが――後に家臣と痴情のもつれからすれ違いを起こした末に、謀反を起こされ、呆気なく死んだ。


 信長は、奈弥を荒尾家にすぐに戻すことはしなかった。弟の喪に服させるという名目の元、2年ほど織田家に留め置いた後、恒興に再嫁させたと聞いている。


 当時、織田家は今川家と争っていた。圧倒的な軍勢の差を見せつけられた中、信長が目を付けたのが荒尾家である。

 荒尾家は、当時尾張と今川領の境で勢力を誇っていた。たとえ信時が死んだとしても、打倒今川を掲げていた信長にとって、手離すには惜しい存在だったのである。


「だから、勝三に嫁がせる前に、もう一度、儂は弟に嫁がせた。先程から言うておる、信勝の室としてな。正室が既におった故、側室としてであったが」


 於泉は唇を開いた。息を吸い込もうとしても、吐こうとしても、うまくいかない。


 ――怖い。


 於泉は拳を震わせた。


 聞きたい。聞かせないで。2つの思いが相反する。

 耳鳴りがひどい。冷たい汗が背中をつう、と通り抜けるのに気が付いた。


「信勝が死んだ時、お奈弥の腹には子が居付いていた」


 信長の目から光が消えた。


「気が付いた者は、ほとんどおらなんだ。お奈弥本人と幾人かの侍女、そして、お奈弥を下げ渡した勝三のみであった。お奈弥は儂に子のことを伏せたまま、何食わぬ顔でを生み、体が弱いと偽り、実家に隠しておった。


 最初は庄九郎こそが勝三が荒尾に隠した子かと思い、面白半分で奇妙の遊び相手に呼び寄せたが――そなたの顔を見た時、全てが分かった。儂には、姪がもう1人おったのか、と。


 ……哀しかった。儂は弟よりも信じておった男に、謀られたのだから」


 指先が震える。


(わたしの本当の父は……恒興殿父上ではない……?)


「その時は、隠し事をした勝三に腹が立った。しかし、今にしてみれば仕方のないことだと理解する気はある。……その姪を見ておると、儂は腸が煮え滾りそうになるのじゃ」


 於泉は肩を強張らせた。光を失った信長の瞳に、憎しみが浮かび上がったからだ。


「不思議じゃ――他の甥や姪達には、斯様な想いを抱いたことはない。たとえば、新八郎などは、三七の傍に、織田の傘下にいても、平然としていられる。なのに、お前だけは――憎い」


「嘘……」


 於泉は頭を振った。


「わたしが、あなたの姪なぞではありません。人違い……人違い、です……」


「いいや、儂の目に狂いはない。そなたは、信勝と瓜二つじゃ。その証拠に、家中では誰もがお前を、儂の庶子と思う程度にはな」


「そんなわけ、ない……だって、年が合わない……もの……」


「年を偽っておったのじゃろう? 幼子というのは、傍にいた大人の言葉を鵜呑みにする。訂正する者がおらねば、素直に信じる者であろう。――かつて、『そなた以外に織田の主の器はおらぬ』と、母の口車に乗せられて死んだ、そなたの父のように」


 かたん、と御簾に何かがぶつかった。振り返ると、そこには庄九郎がいた。


 庄九郎はさも今気が付いたと言わんばかりに顔を伏せた。


「――申し訳ございません。御屋形様がお越しとは存じずに、失礼を致しました」


 と、こうべを垂れる。


「良い。久しいのう、庄九郎。相変わらず、そなたは美しいのう」


 信長は先程までの冷徹さを消し、人懐こそうに笑った。


「於泉はそなたの姉妹じゃ。好きに行き来するが良い。明日には、会えなくなるのだから、積もる話でもするがいい」


 足音が、遠ざかる。頭を垂れていると、於泉の前に影が下りた。

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