乱離拡散【弐禄】


      *


 縁を駆け抜け、於泉おせんの部屋の前で止まる。ちょうど御簾が空いていたので、遠慮なく部屋に侵入した。

 於泉は褥の上に座し、太ももの上に夜着を掛けていた。まだ顔色が悪く、最後に会った時よりも痩せて見える。髪を括らず背中に流しているせいで、以前よりも女らしさが増していて、見ていて落ち着かなかった。

「まだ、姫様は治っておりません。長く連れ回されませんよう」

 柚乃ゆずのは於泉の肩に小袖を羽織らせると、廊下に出て行った。


 2人きりになっても、於泉は口を開こうとはしなかった。まだ、熱でもあるのだろうか。長可ながよしはほつれた前髪を払い、額に掌を当てた。熱はないようだが、首筋にはまだ包帯が巻かれていた。

「もう、全部終わった。安心しろ」

「……そう」

 猫のように長可の掌に額を擦り付けながら、於泉はきつく目を瞑った。

「勝蔵殿にも、兄上にも、……合わせる顔がなかった」

「なんでだ?」

「務めも果たせず、挙句、こんな姿で……」

「お前に責任なんかねえだろ。気にすんな」

 元を正せば、仕留め損なった父親世代が悪いのだ。あの時残党を1人残らず仕留めることができていれば、於泉は今頃、京に辿り着き、新しい部屋で旅の疲れを癒していたことだろう。


 傷はある程度落ち着いたと聞いているが、まだ於泉の体には包帯が巻かれ、薬湯の臭いが部屋中に満ちている。特に首筋の傷が深いようで、厳重な手当が施されていた。

「痛いか」

「今は、そんなに。皮一枚くらいで、塞がりはしたし。でも、弓を絞ったりはできそうにないわ」

「それは治ってからじゃないとさせねえから、心配すんな」

 言ってから、ふと、長可は気が付いた。於泉はもしかすると、怪我が癒えたら今度こそ京に向かってしまうのではないか、と。

 長可の気持ちに気が付いたのか、あるいは愚痴のようなものを零したかっただけなのか、於泉は長可の掌嘉新離れると、目線を下に落とした。

「兄上から、聞きました。此度の件は、白紙に戻されたって。二条様の元にお輿入れする姫は、また別に見つけられる、と。わたしは療養に専念せよと言っていただきました。……情けないわ」

「そんなことねえ。無事で良かっただろ」

「良くないわ。……嫁に行けず、若が仕えるかもしれなかった手駒を1つ絶ってしまった。その上、わたしはたった1人、恥知らずに生きて……。……たぶん、傷が癒え次第、どこか寺に入れられるかもしれない……」


「家臣への褒美に下賜されるかもしれないだろ」


 逃げられる前に、夜着の上に置かれた傷だらけの掌を握り締めた。案の定、一瞬の隙で於泉は長可から逃げようとしていた。


「褒美って……誰に渡されるの」

「今回の、下手人捕縛を褒めていただいて、褒美を使わす、と……。だから、嫁取りくらい、許されるんじゃないかと」

「馬鹿じゃないの。……わたしのことなど、どうでもいいくせに」

「良くない。本当は、京になど行くなと言いたかった」

「……行けと言ったのは、勝蔵殿じゃないの」

「そうだけど、若のことがなかったら、俺はお前に、美濃にいてほしかった」

 長可は一旦、言葉を区切った。今から言うことは、一生胸に秘めておくつもりだった、とても大切なことだった。


  そのうち、奇妙丸と恒興に頭を下げることになるし、話も通さなければいけない。それでもまず、於泉に直接伝えておきたかった。


「俺の正室の座は、空けておく。何年掛かってもいい。傷が治るまで、ずっと待ってるから」

「……憐みなら、要らないわ」

 於泉が払い除けようとした掌を掴んで離さなかった。長可は、握り締めた手に力を込めた。

「憐みでこんなこと言えるほど、俺は器用じゃねえし、優しくもねえ。於泉だから、言っている」

「厭よ。……正室になんてなったら、側室の管理とか奥向きのこととか、忙しそうだもの。というかわたし、側室を許してあげる器量なんてないし」

「別に、側室なんか要らねえから問題ないな。弟が沢山いるし、仮に子供が生まれなかったら、乱丸でも養子にすればいいだけだろ」

 於泉の目が揺れた。馬鹿じゃないの、と擦れた声が聞こえる。

 朝露のような輝きに、思わず見入った。殺そうとした男のうめき声は何とも思わなかったのに、於泉が流す涙と、時折漏れる吐息には、不思議な気持ちが沸き上がった。馬鹿でもいい、と思える程度には。


「於泉」


 呼びかけても、返事はない。


「於泉」


 ただ静かに頭を振るだけで、うん、とも、厭、とも言われはしない。

「今すぐに返事しろとは言わねえし、いきなり話を進めることもしねえ。ただ、ゆっくり考えてほしいとは思ってる。俺が妻にしたいのは、お前だけだ」

 声を掛けても、返事はない。於泉の頬を伝う涙を指先で拭ってやりながら、長可はゆっくりと新しい年の行先を考え始めていた。


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