梅の香【壱】


      *


 美濃国岐阜みののくにぎふ城――


 信長のぶながに呼び立てられ、奇妙丸きみょうまるは天守に続く階段を登っていた。足音を立てぬよう、しかし待たせては機嫌を損ねてしまうので、できる限りで急ぎつつ。

 信長はここからの見晴らしを気に入っており、何かあると、帰蝶きちょうや近侍達を呼び寄せ、何やら談笑しているのを見かける。


 天守に着くと、信長は手すりに凭れ掛かるようにしながら、城下を見下ろしていた。


「父上、奇妙丸にございます」


 信長は自分で呼び寄せておきながら、あまり興味のなさそうな声色で「そうか」と言った。いつものことだし、慣れたことなので今更気にはしない。

 信長は奇妙丸を見やると、不思議そうな顔で首を傾げた。

「奇妙、そなたいくつになった」

「は……。この正月で、17になりました」

「そうか。そんなになったか……となると、その面妖な名はおかしくなったな」

 面妖、と言われた奇妙丸は、ひくりと蟀谷に青筋を浮かべた。面妖な自覚はあったのかと、分かっていたががっかりした。

 河尻秀隆かわじりひでたかからは、「『奇妙』という言葉には、珍しく優れているという意味がある」と言われていたが、やはり、信長は「生まれた時の顔が奇妙だったから」という理由で、奇妙丸と名付けたようである。

「となると、いつまでも独り身でいるわけにはいくまい。室も見繕わねばなるまいな」

「いえ、その必要はございません」

 無意識に声を荒げると、信長の視線が鋭くなった。しかし、こればかりは譲れなかった。


 何年も前から、事実上破約となっていた約束ではあった。実際、去年に正式に同盟が捨て去られ、武田の姫との婚約は破談となっている。


 しかし――それでも二人の間で、取り交わしていた約束があった。

 いつか、織田と武田が再び手を取り合える関係になれたら――奇妙丸は正室として、彼の姫を迎えるため、正室の座を空けておく、と。そして姫の方も、奇妙丸以外の元には嫁がないと約束をしてくれた。


 たとえここで殴られ、天守から叩き落されたとしても、姫と交わした約束だけは、違えるわけにはいかない。


 掌に汗を浮かべながら信長を見据える。すると、信長は呆れたように、「子を産めぬ女子を側室にすることはできん」と言った。

「は?」

「なんじゃ。勝三のところに預けた、あの女子のことではなかったか」

 信長の言葉に、奇妙丸はきょとんとした。だが、周囲からそう思われるように、於泉に協力関係を布いていたのも事実である。他の女子を近づけられないよう、時間を稼ぐことができるように、奇妙丸は「幼馴染の少女」をなるべく近くに置いていた。

 しかし、信長にまでそんなことを思われているとは思わなかった。

(流石に、於泉のことをそのような目では、見られぬのだが……そんなこと、父上が一番分かっておられように)

 奇妙丸は心の声を隠すように、自分はまだ未熟だ、と伝えた。

「某は、まだ若輩者にございまする。妻を娶るには、いささか時期尚早。今はまだ室を持つよりも、父上や、父上の家臣のお歴々から学ばねばならぬことが多うございます故」

 湿る掌を握り締めながら見上げると、信長は意外にもあっさりと頷いた。


「確かに、そなたは室を迎えるより先に、名を変えねばなるまいな。奇妙丸。そなた、今日から『信重のぶしげ』と名乗れ」

「信重……」

「元服自体は、よき日取りを選んで、茶筅ちゃせん三七さんしちもまとめて執り行う。それと、元服次第、そなたには伊勢と北近江を任せる」

 伊勢と北近江。この2つの国を任せるという意味が理解できぬほど、奇妙丸は阿呆ではなかった。


 2年ほど前から、本願寺の反信長蜂起に伴い、長島でも本願寺の門徒が一斉に立ち上がった。これに呼応して、北勢四十八家と呼ばれた北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻し、一揆に加担した。

 大坂から派遣された坊官の下間頼旦らに率いられた数万に及ぶ一揆衆は、伊藤氏が城主を務める長嶋城を攻め落とし、続く11月には信長の弟・信興の守る尾張国古木江城を攻め、信興を自害に追い込んだ。さらに、桑名城の滝川一益も敗走に追い込まれている。


 近江は、信長の同母妹いもうと・おいちの夫・浅井長政あざいながまさが治めている。しかし、浅井家は朝倉家とともに、信長に反旗を翻し、今では同盟関係にない。


 長島の一揆と、浅井家。この2つの戦は、奇妙丸――改め、信重に権限を与えられた、ということである。これまでのように、ただ戦場に同行するだけではない。将として、軍を率いなければならない、ということである。


 自らの責任を噛み締めて頭を深々と垂れると、信重は天守を後にした。


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