乱離拡散【弐】


      *


 於泉の部屋の戸を開け、御簾を開く。ちょうど、柚乃が血を吸い込んだ当て布を始末しようとしているところだった。

「あ、若……」

 柚乃が頭を垂れようとするのを手で押しとどめると、庄九郎は鮎から受け取った水桶を柚乃に手渡し、於泉の傍に座った。柚乃は桶の中で手拭を絞ると、於泉の額に浮かぶ滴を軽く拭いた。

 枕に頭を置いた於泉は、指先1つ動かさない。首筋には薬草を張り付けた布が巻かれている。瞼は伏せられ、いつも桃色に染まった頬は、魚の腹のように血の気が通っていない。胸が上下しなければ、生きていないのではないかと勘繰ってしまうほど。


 池田家に運ばれてから、於泉が目を覚ましたのは一度きりである。


 屋敷に辿り着き、庄九郎の姿を見た於泉は、はらはらと涙を流しながら、ゆらゆらと手を伸ばして来た。


『ごめんなさい……御役目を、果たすことができなくて……』


 意識を失ってから、於泉が目を覚ますことはなかった。いまだに眠り続けている。薬師くすしに言わせれば、生きていることが奇跡らしい。


 もうこのまま、目を覚まさないのでは――そう思う時さえある。


 於泉以外の者は皆、絶命していた。犯人の検討は付いているが、依然として足取りは掴めていない。於泉が目を覚ませば、相手のことが少しでも分かるのだろうが。

 於泉の看病をおこなっているのは、もっぱら鮎だった。意識がない於泉でも食べられるように、薬湯を煎じたり、粥を更にどろどろに煮て溶かし、口をこじ開けて流し込む。ほとんど吐き出されてしまうものの、少しでも意識がないまま飲み込んでくれるのを見ると、鮎は安堵していた。

 あまりにも鮎は於泉の傍から離れようとしないため、周囲が意識的に下がらせなければ、眠ることさえ忘れている。

 於泉と鮎は、性格こそ異なるものの、仲がいい姉妹だった。於泉が嫁に行くと決まった時、寂しがって涙ぐみながら、誰より祝福していたのも鮎だった。次に報せが来るとしたら京に着いたとか、子供ができたとか、そんな幸せなものだと信じていたのだろう。


 それなのに戻って来たのは、白無垢を自分や乳母の血で染め上げた、変わり果てた姿だった。

 柚乃は夜着から出る於泉の爪をそっと撫でる。

「爪が伸びておられるから、切って差し上げないと」

「うん……世話をしてやってくれ。手は掛かるが」

 柚乃の素性は、今のところ誰も知らない。於泉が輿入れした時までは兄の元に戻ろうとしていたが、於泉が戻って来てからは、夜も寝ないで懸命に看病してくれている。於泉のことを想う気持ちは、間違いなく本物だと――信じたくはある。

「若」

 部屋の前で、政右衛門の声がする。

「お隣の、森勝蔵殿がいらしております」

「勝蔵が?」

 庄九郎は柚乃の顔を見た。きっと、於泉の様子を見に来たのだろう。しかし、柚乃は断ってほしい、と静かにかぶりを振った。

「どうぞ、ご容赦ください。今のお姿を、森様に見られることを、姫様は望まれません……」

 柚乃の進言に頷きながら、代わりに庄九郎が立ち上がり、長可が待つ部屋へと足を運んだ。


   ◇◆◇


 客間で待たせた長可は、ぼんやりと正面を見つめていた。しかし、庄九郎の気配を察すると、胡乱な目で振り返る。速さだけは、昔於泉が可愛がっていた犬と同じだった。

「庄九郎」

 振り返った黒鳶色は、野犬のように光り輝いていた。怪しいほどに猛々しいのに、どこか無邪気さも感じる、不気味な目だった。

「本日は、若の名代にて馳せ参じた」

「そうは言われても、於泉には会わせられないぞ」。

「寝顔を見るのも駄目か」

 ムッとしたように、長可は唇を尖らせた。

「柚乃に怒られるぞ」

「柚乃殿か。あんな極楽の美女に怒られるのなら、それはそれで悪くねぇかもしれねぇなぁ」

 茶化したように、けらけらと笑ったのは一瞬だった。

 だらけていた居住まいが正されると、ただでさえ無駄に大きい体がより一層大きく見えた。

「若からのお言付けをお伝えしに参った。――『明日、部屋に』と」

「……? 承知した」

 庄九郎が曖昧に頷くと、長可は満足そうに笑う。

 長可宛ての奇妙丸の言付けを庄九郎が預かる、ということはよくある。しかし、庄九郎宛ての言付けを長可が、というのは非常に珍しいことだった。

 長可は庄九郎に「お大事に」と言い残すと、於泉の部屋の方角を一切振り返ることなく、隣の屋敷へ帰って行った。

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