乱離拡散【拾弐】


      *


「申し訳ございません。まさか、我が娘が若君にこのような無礼を……! お詫びのしようもございません!!」


 嘉之助かのすけが娘の頭を床に減り込ませんばかりの勢いで押さえ付け、呆れるほど頭を垂れた。


 謝罪を受ける乱丸らんまるは、というと、長可ながよしの座から少し離れた場所で、傅役である伊集院藤兵衛いじゅういんとうべえの背後に隠れながら、紐の痕がくっきりと付いた手首を振り回して熱を逃がしていた。


「殿様……」万里まりが涙目で、長可の顔を恐る恐る伺う。「恐れながら、若君はあまりにもヘタレが過ぎるかと思われます。紐の結び方は知らないし、字は汚いし、あるまじきっ」

「もういい黙れ!」

 嘉之助がまた万里の頭を小突く。せっかく結って来たであろう髪が無残にも乱れていた。


「良い、嘉之助。そんなにお万里を殴るな」


 森家は兄弟姉妹が多く、こんなやり取りはもはや諍いとも呼べない。もし乱丸の腕を紐で縛っていたのが万里ではなく妹のうめであれば、乱丸の手は胴体と永久の別れを告げることになっていただろう。

「女子に泣かされたなど、我が弟も広められたい話ではない。此度は、これにて手打ちとしよう」

「ありがたきお言葉……」

 嘉之助は心底安堵したようにもう一度礼を言った。


「ほら、乱。お前も」


 長可は、藤兵衛の後ろで様子をうかがう弟を見た。

「そのようにメソメソと泣くものではない。松野屋まつのやの娘からの詫びを受け入れい」

 長可としても、松野屋との関係を断つ気はない。大した怪我もなかったなら、乱丸に謝罪を受けさせる気であった。

 乱丸は不貞腐れたように、おずおずと万里の傍ににじり寄った。しかし、万里の傍に行くと、再び沈黙し、俯いてしまう。


「……あの、まだ痛い……?」


 万里が上目遣いに、乱丸に問い掛ける。不遜な態度を取りながらも、一応娘なりに、乱丸のことを気にしていたらしい。乱丸は言葉では返さず、首を横に振った。


「よかった」


 ホッとしたように、万里が表情を咲かせる。


「死んじゃったりしたら、どうしようかと思った」


 万里が微笑を浮かべると、乱丸は反対にどんどん俯いて行った。

 万里は床に三つ指を突いた。伸びた髪が音を立てずに肩から流れ落ちる。


「万里と申します。この度は、大変なご無礼を致しました」


 すんなりと、練習したであろう言葉だった。男同士の1つ2つなど大した差には感じないが、これが片方の性別が変わると急な差は大きい。先日会った時より、一層大人びて見えた。


「ほれ、若君も。名乗って差し上げませ」


 藤兵衛が乱丸を促した。もじもじと人見知りを発揮する乱丸を激励する。



「……んまるでござる……」




「聞こえません」




 万里の玲瓏な声は、男ばかりの部屋に無駄に響き渡った。


「『る』しか聞こえません。はっきり言ってください」


 にっこりと笑いながら、再び挨拶を促す。嘉之助が慌てる中、長可は噴き出していた。


「乱丸、お前の声は娘御に届いておらぬぞ。――もそっとはっきり言わねばな?」


 乱丸はもじもじとしながら、再び名乗る。乱丸が万里から了承を受けるまで、このあと3回も掛かったのは、別の話である。

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