忍ぶれど……【伍】
*
初めて血の臭いを肌に帯びたのは、1年前のことだった。
当時はまだ「勝九郎」と名乗っており、元服さえ先のことだと思っていた。
池田屋敷には、恒興が「子供達が絶対に入らないように」と、実子や子飼い達に言い含めている部屋がある。
よく、政右衛門の父の藤左衛門からは「あそこには魔物が住んでいるのだ」と脅され、鮎や古新は近づこうともしない。
政右衛門と於泉は恐れることなく突撃しては、恒興に摘み出され、藤左衛門に張り倒されていた
その部屋に、12歳になった年、勝九郎は入ることが許された。信長の小姓として城に上がり始めて2年ほど経過していた。
「父上……俺がここに入って、いいんですか」
「構わん」
戸惑う勝九郎に、恒興が振り返ることはない。
恒興は、特段小柄なわけではないが、亡くなった森三左のような、逞しい男でもない。それなのに、今目の前にいる恒興は、容易に超えることができない石垣や銅張のように感じられた。
先を歩いていた藤左衛門が開かず間の錠を外す。戸を押し開けると、鉄が錆び付いたような臭いがした。
(この臭いは、まるで……)
「んーーーーッ!!」
甲高いくぐもった声が鳴り響く。勝九郎はかたかたと指先を震わせた。
恒興の足元に何かが転がっている。
侍女の装束に、乱れた髪。
赤黒く染まった頬。
口には轡を噛まされており、話すこともままならないようだ。
折られたように歪に腫れ曲がった手足を縄で縛られている。
勝九郎のすぐ下の妹・於泉の
於泉だけではなく勝九郎や鮎も「ねえや」と呼んで慕っていた。
「何故、ねえやが……」
ひゅんっ、と空気が鳴り響いた。恒興が刀の柄を勝九郎の方に向ける。
勝九郎が硬直していると、恒興は焦れたように「持て」と命じた。
「斬れ」
於泉の乳母が慄いたように一層暴れた。固まっていると、急かすように
「勝九郎」
と、呼ばれた。
恒興の榛摺色の双眸が濁っている。木の幹のように見える瞳は、今は底なしの沼を思い出させられた。
「この女は、お前のきょうだいの乳母だ。同時に――家の草でもある」
「く、さ」
「そうだ。……若と親しいお前達から情報を引き出し、主殿に伝えていたらしい。――隙あらば、若を弑し奉ろうと考えておったようだ。恐れ多くもな」
「若を……!?」
主君の名に勝九郎は蒼褪めた。
ねえや、と呼ぶと年若い乳母は「何ですか」と微笑んでくれた。
奇妙丸の屋敷で起きたこと、政右衛門との手合わせに飼ったこと、於泉がまた勝蔵に泣かされたこと……。
些細なことを時に笑って、時に慌てて聞いてくれた人だった。
その笑顔が、偽物だとは思えない。父の言葉を疑う気はなくとも、どうしてもこれまでの日々を塗り潰すには至れなかった。
明確な証拠はあるのか。まだ、乳母が草ではない可能性があるのではないかと、勝九郎は思いたかった。
「勝九郎」
それでも、恒興は言う。
疑わしきは罰せよと。疑われたこと自体が、乳母の罪であるのだと。
「お前、いくつになる」
「……12、になります」
「稽古はして来たな」
「は、はい。政右衛門とともに……精進しておりまする……」
「人を斬ったことは」
「まだ、ありません」
「刀で、人は斬れる」
恒興の手の中で、刀身が怪しく艶めいた。
「御屋形様は、今は人を斬らん。が、御屋形様の振るう采配一つでいくつの命が散り行くと思う」
何十か、何百か、それとも何千か。
考えることもできないほどだ。初陣を終えていない勝九郎には、何も分からない。これまで戦場に行ったのは、全て信長の世話をするためでしかなかった。
(戦国乱世……俺は人を斬るのだ)
頭では分かっていた。しかし、実際に斬れ、と迫られた時に戸惑った。
「お前には斬れるか」
最後に映った乳母の目を、思い出すことはできない。動かなくなった死に顔が泣き濡れていたことは気が付いた。しかし、その目が自身を睨んでいるか、最後まで助けを乞うていたのか、それとも憎しみに満ち溢れた呪いだったのか――確かめる勇気はなかった。
「御屋形様からのご命令だ。近々、元服させる。若の近侍となり、お傍に侍れ」
(父上は……よく、陰口を叩かれていたな……)
信長の乳兄弟という立場にありながら、出世が遅い。余程無能に違わない。一時、織田家を出奔していたのは、そうした事実を誹られたことに激昂したからだ――と。
なぜ、父が城持ちにならないのか。そして、乳兄弟としてともに暮らすほど近しかった信長の傍を、一時でも離れたのか。
(そういう、ことだったんだ……)
勝九郎は指先に触れた血を唇に当てた。血の臭いを覚える。事切れた女のからだは簀巻きにされていた。どこに持って行くのかとは、聞くことができなかった。
「着替えを用意させます」
藤左衛門の声がどこかで聞こえる。
水桶に映った自身と、目が合う。赤に近い黒に染まった唇と、光を失った蘇芳の目。
(『勝九郎』はもういない――)
幼き日の自分とは、別れた。今斬ったのは、ねえやではない。数刻前までの、自分自身だ。
もう戻れない日々を思い、勝九郎は桶の水に顔を埋めた。
*
枕に頭を擡げた女の寝息が居室に響く。
慣れないその音と柔らかな気配に、庄九郎は乱雑に頭を掻き毟った。
恒興に殴られた鳩尾がまだじくじくと痛むが、それすらも気にならないほど、頭の中が乱れている。
侍女達に命じ、衣は替えさせた。
身体や髪は拭かせたが、まだ花の匂いに鮮血の臭いが混じっている。
先程まで、本当に血の海の中に立っていたのかと疑問に思うほど、ふみは静かに寝息を立てていた。
(こうして寝顔だけ見ていると、地獄の獄吏も……この
政右衛門は「もう少し佳人の寝顔を見せてくださいよぉ」と喚いていたが、けり出した。
ふみの眉間に皺が寄った。唇が震えて、何か助けを求めるように、指先を褥に這わせた。きっと、先程のことを思い出しているのだろう。
元凶である庄九郎に慰める権利がないことは分かっている。それでも――雪のような皸交じりの指先に掌を重ねながら、庄九郎は瞼を伏せた。
*
小鳥の
布が擦れる音に思わず目を開けた。いつの間にか、床板の上に横になっていてしまったらしい。
まだ夜かと思ったら、もう月は見えない。出仕の時刻には届かないが、そろそろ着替えを始めてもいい頃合いだった。
月の光が庄九郎の姿を映し込む。まだ、夜着を肩まで掛けたまま。指先も遠慮がちに絡み合ったままだった。
「……怪我は」
庄九郎が問うと、ふみは若干いつもより擦れた声とともに、枕の上でか弱く頭を振った。
「ありません。ご迷惑をお掛けしたようで……」
「ああ、そうだな。夜更けに女一人で出歩くものではない」
「すみません」
特に感情を乗せた風もなく、ふみは言葉を続けた。
まるで朧月に見られているような気分で、酔い痴れてしまいそうになった。
庄九郎は起き上がると、軽く頭を振ると、刀を持った。
「どこに行かれるんですか?」
「城だ。あなたも、そろそろ戻らなければいけないんじゃないのか。奥方様も心配しておられるだろう。……これに懲りたら、夜間に無断で城を抜け出すような真似はしない方がいい」
「まあ」
不愉快そうにふみは眉根を潜めた。
「忘れておりましたけど」
そう言い、ふみは枕元に置いていた箱を突き出した。
蝶の模様が描かれた朱塗りの箱は、大きさ・形からして文箱であろう。
「これを、池田勝三郎様のご内室殿にと」
「……母に?」
「ええ。私の主からのご命令によりお届けに上がりました」
ふみの眉根は、真ん中に皺が寄ったままだった。
主人の命で使いに出ていたところを偶然騒動に巻き込まれ、あわや政右衛門に殺されるところだったのだ。
挙句、庄九郎は勝手に夜遊びをしていると決めつけて責められた。ふみが不愉快に感じるのは当然の反応である。
「無礼を申し上げたこと、お詫び申し上げる」
庄九郎はその場で居住まいを正し、床に向かって頭を垂れた。
「このような立場で申すことではないのは、重々承知だが、昨晩のことは忘れると誓ってほしい」
「何故ですか」
「昨晩のことを忘れたわけがあるまい」
ふみの顔色が変わった。膝の上に乗っていた両手が擦り合わされる。
「それこそ、当たり前でしょう。人が殺される場面なんて、普通ならそう滅多に見るものではありません。……何年経ったとしても、忘れることなんてできるはずがないでしょう」
「だが、忘れてもらわねば困る。……我らはあなたを斬り捨てるわけにはいかないからな」
「それは――」ふみの双眸が青白く光った。「私が奥方様の姪だからですか?」
確かにそれはある。
「あなたには、昨晩のことを忘れると誓い、今後なるべく、俺とは関わらないでいてほしい。我々もあなたに構っていられるほど、暇ではないんだ。……忘れてくれれば、無関係な相手。敵ではなければ、殺す必要もない」
「……なら」
ふみは頬を緩めた。
「もし私が敵として相対すれば、あなたは私を殺すのですか」
「そうなるな」
「私よりも、年下なのに」
ふみの瞳は漆黒に染まってはいない。三日月のような瞳をしている。
「今から、人を殺し続けて……あなた方はどうなさるおつもりですか? とうに武家の娘の肩書を捨てておりますから、よく分からないのですが」
「分かってもらう必要はない。こんな時世だ。強ければ生き、弱ければ死ぬだけだ」
「つまり、弱き者は死んでもよい、と。あなたはそう仰せなのですか? 昨日までに死んだ者達は、弱き者故死んでも構わない、と。そういうことなのですが」
ふみの顔色がますます色を失った。
「ですが――天下布武というのは、弱き者のためにあるのでは?」
民が安心して暮らすことができる世の中。それこそが信長が創り上げ、奇妙丸が治める後の世だ。
その邪魔になる者は、許さない。池田家は織田弾正忠家に一番近い存在として、全てを斬り捨てる。――影として。
「おかしいですね」
ふみは首を傾げた。
「弱き者のためと謳いながら、あなた方は人を斬るなんて。あなた達に斬られた者にだって、親やきょうだいはおられるのではないのですか」
武家にとって、一族の長の命が第一だ。個人の意志は問われない。池田家とて、恒興が仕損じれば庄九郎は元より、於泉や鮎達とて連座されるのだ。
庄九郎だけではない。他の者もそうだ。長可の弟達も。
奇妙丸とて、信長が仕損じれば腹を切らされることになる。
(そんな世は、狂っているんだろう。狂っていると思いつつ、その世の中を受け入れている俺自身も――)
「……今は、他言は致しません。でも、覚えておきます」
「おい」
「あなたが『人を斬る』理由――それを見つけ出したら、その時忘れて差し上げます。武家だから、こんな世の中だから、ではなく。あなた自身がどう思って刀を振るのか。……それでは、失礼致します」
月の光が朝陽の下で揺れ動いた。振り返ることなく去る背中は凛とした大人のそれだった。
残されたのは蝶の文箱と、甘い香り。鼻孔を擽る香が紅梅の香りだと気付いたのは、ふみが屋敷を出た頃だった。
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