梅林止渇【弐四】


       *



 長可は立ち上がり、於泉の掌を押し返した。


 もし、於泉が本心で長可を想い、金山に来たいと言ってくれるのなら、美濃の全てを捨てられるだろうか。

 弟達からも、岐阜に残している母や妹からも目を背け、森の名を捨て、2人だけで、なんて。


 ――答えは考えるまでもなかった。


「俺の主家は、織田家だ。――でも、俺がお仕えしたいと、心から切に願うのは、奇妙丸様お1人なんだ」


 於泉を想う気持ちは、奇妙丸を捨てるほどに至ることはできない。

  ずっと、そうやって生きて来た。そうなるように育てられもした。


 この場で於泉を選び、奇妙丸の手を放すことになれば、長可は己の選択を命尽きても悔いることになる。

 於泉を見捨てた痛みは、いつか忘れられるかもしれないが、奇妙丸を捨てた悔恨の意は、輪廻の輪を潜った程度で消えるものではない。


「……前にここに来た時、わたしを助けに来てくれたこと、覚えてる?」

「ああ。駒若丸に連れて来られた」

「駒若丸。……懐かしい」

 於泉の目から涙が流れた。於泉が幼少の頃の遊び相手だった駒若丸は、もう何年も前に死んでいた。


 涙を拭ってやる資格は、もうない。


「御屋形様は、いつか世を変えようとしている御方だ。戦がない、世を」


 傍から聞けば、ただの綺麗事だ。しかし、信長は実際京への上洛を幾度も果たしている。


 天下布武を成し遂げるのは、容易なことではない。戦を続けようとするよりも、戦を終わらせようとすることの方が、多くの犠牲を強いて、血を流すことになる。

 新しい世を創って行くには、京との繋がりを太くしていかなければならない。織田家の存在を都で、将軍を追放しても織田家が残って行くためには。


「駒若丸は、頭のいい犬だったな。主思いで……人懐こくて。俺よりずっと、お前のことを想ってやってた」


 於泉と、視線がかち合う。長可は顔を顰めた。


「眩暈が、する」


 長可は1歩近付いた。


「すぐには治まるけど、1人で立っているのは、辛いものがあるな。……主家の姫君になられる御方にしてみれば、家臣の身で、許しがたい無礼であることは、百も承知。……なれど少しだけだから、目を瞑っていただけまいだろうか」

「……はい」

 於泉からも、1歩近付いてくれた。

 髪に掌を当て、抱き寄せる。倒れ込んだ長可の背に、於泉が腕を回して支えてくれた。


 皆、どこかであの頃のような日々が続けばいいと思っていた。

 剣を打ち合い弓を絞り合い、縁側で菓子を奪い合い、雑魚寝をして、悪戯をして叱られて……。そんな暮らしが続けばいいと思っていたのは、長可も於泉と同じだった。

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