梅林止渇【弐参】
*
頭が動かず、ぼんやりとでもできるようになったのは槍だけだった。
しかし、朝餉も食べずにずっと槍ばかり振り回していたら、妹のうめから「うるさい」と脇息を投げられた。
金山ならばもう少し場所が広いのでいくら音を立ててもいいのだが、岐阜の武家屋敷では、使える場所も限られて来るのを失念していた。
仕方なしに屋敷の外を散歩しようと門を出ると、そこに立っていた人物に長可は「はあ⁉」と声を荒げた。
「勝蔵殿。うるさい」
悪戯が成功したような笑顔で立っているのは、於泉である。
唐紅の結布で髪を結い上げ、梅の柄の絹の小袖を着、黒地に金糸で縁取りの刺繍が施された馬乗り袴を履いている。
「勝蔵殿、お供は」
「いないけど……お前こそ」
長可は戸惑った。嫁入りを控えた娘がこんなところに、供も釣れずにいていいはずがない。
早く戻れと促そうとすると、於泉がさっさと先に歩き始めてしまった。
仕方なしに長可も後を追い駆ける。
「おい、どこに行くんだ」
「黙って付いて来て」
於泉は振り返ることもしないまま、ずんずん前を歩く。
「どうしても、勝蔵殿と一緒に行きたいところがあるの」
迷いのない足取りである。奇妙丸のところにでも行くつもりなのだろうか。
於泉の髪が前で優雅に波打った。
止めることも、ましてや何かを告げてやる勇気さえも持つことができず、長可は姫君の護衛をすることしかできなかった。
*
草木の中を進む。於泉は時折草に足を絡め取られながら、山を登った。
この山を、長可は知っている。
長可と於泉が初めて打ち解けるきっかけになった場所だ。
7年も経ったからか、それとも季節が違うからか、以前来た時よりも歩きやすい。
先導してやろうとすると、於泉は拒んだ。長可の方が山の中を歩き慣れている分、草木を掻き分けてやれるのだが、於泉は頑なに前を譲ろうとしない。こうなったら、於泉は頑固だ。長可は軽く嘆息しつつ、従った。
於泉がようやく立ち止まったのは、頂上に辿り着いてからだった。
「……芒」
於泉の声が転がる。
「生えてないわね」
枯れてしまったのか、それとも誰かが刈り取ってしまったのかは分からない。
初めてここに来た時は、たくさんの芒が生えていた。
2人で泥と擦り傷だらけになりながら芒を城に持って行って、父親達や奇妙丸に叱責された。
しかし最後には奇妙丸と、庄九郎と、長可と、於泉。4人で、欠けた月を見て小さな宴を催した。
「……わたしが思うよりもずっと、月日は経っていたのね」
於泉が感情の載らない顔をしている。長可がよく知る。喜怒哀楽が激しい幼馴染はそこにいない。
凛として、綺麗にはなった。しかしその分、悲しい女になってしまった。
「御屋形様がわたしを養女に迎えたいと仰せなの。……知ってる?」
「ああ。兵庫に聞いた」
「御屋形様の養女として、織田家の姫として、わたしは関白・二条晴良様のご子息・昭実様の側室として、京に嫁ぐの。……それも、知ってる?」
長可は苦虫を潰したような顔をした。
「ああ」
長可は拳を固く握りしめた。必死で唇を噛み締める。このまま、於泉のことを詰ってしまいそうだった。
(俺の気持ちを知っているくせに)
於泉は崖から少し離れ、座り込んだ。長可も隣に座った。
「わたし、御屋形様には憎まれているのだと思っていた」
「は?」
長可は訳が分からず、於泉の顔を見た。蘇芳の双眸は、どこを向いているのだろう。町を見下ろしている風でいて、何も映していないように見える。
「お前が御屋形様に憎まれているわけないだろ。自分の立場、考えてみろよ」
於泉は奇妙丸が信頼する幼馴染で、妹同然に可愛がっていることを城内で知らぬ者はいない。それだけではなく、信長の乳兄弟の娘でもあるのだ。城内で会った時、長可は庄九郎と於泉とともに、信長から気に掛けてもらっている。
「お前は確かに城内でしょっちゅう物を壊したり騒いだりしているけど、そんなこと言ったって、俺がやらかしたことに比べたら少ないし。それに、本気で憎んでいる相手を養女になんて迎えたりするか、普通? 俺なら絶対しないね」
「うん、そうよね。……主家の姫に名を連ねられるなんて、これほど名誉なこともないわ」
於泉が草を抜いてその辺に投げた。
「……でも、わたし、嫁ぐなら勝蔵殿のところだと思っていた。本当よ」
於泉の瞳が長可を映しこんだ。
「今だって、嫁入りの支度をした先は、金山なんじゃないかって、本気で夢に見る時がある」
「……馬鹿言うなよ」
長可は地面に拳を減り込ませた。
「俺の父は、確かに御屋形様に重用されていた。俺も、同じように気に掛けていただいている。あと何年かしたら御屋形様に、俺の弟達も同じように厚遇されるだろう」
奇妙丸は、ずっと長可と於泉を娶せたいと言っていた。しかし、どこかでそれを受け止めながら、きっと叶わぬ願いだろうと思っていた。
於泉には、ずっとある噂があった。「信長が荒尾の娘に産ませ、恒興に押し付けた隠し子である」という。
根も葉もない噂話で、於泉の耳に入れないように注意していた。証拠などどこにもない。しかし、証拠がないことをあざ笑うかのように、於泉の容姿は日に日に奇妙丸に――否、信長に似ている。
長可がいくら厚遇された扱いを受けているとしても、於泉を――信長の実の娘を賜ることができるほどではない。少なくとも信長の中で、実の娘をやらねばならないほど、森家への信は軽くないのだ。
「……勝蔵殿」
於泉が不意に立ち上がり、長可のことを見下ろした。
「もし、わたしが京に行きたくないと言ったら、わたしを金山に連れて行ってくれる?」
於泉の目が潤んだ。差し出された掌は、思ったよりも細く、小さく、頼りない。
「勝蔵殿が来いと言ってくれたら、わたしはどこにでも行くわ。苦労したっていい――二度と兄上達と会えなくなったっていい。石ころ以下の値打ちになるくらいなら、勝蔵殿と嫁ぎたい」
――側室として、於泉は嫁ぐ。
数多いる妻の、1人として。昭実はきっと、於泉の真の値打ちに気が付くこともなく扱うのだろうか。腸が煮えくり返る。
長可は、傷1つない白い手を見つめた。長可と違い、手入れされた美しい掌だった。
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