梅林止渇【弐】


       *


 ――元亀3年(1572年)、春――


「姫様ー! 於泉様ー!」


 隣家の方角から、若い女の声が聞こえる。

 長可は溜息を吐きながら、槍を振るのをめた。たんぽ槍を肩に乗せると、垣根に肘を乗せ、隣家を覗き込む。


「おい」


 長可と目が合ったのは、於泉の侍女の柚乃である。

 柚乃は廊下から庭に降りると、長可の方に駆け寄って来た。


「森様、騒がしくしてしまい、申し訳ございません。――姫様はそちらにおられますでしょうか?」

「いや、来てないけど。……か」

「はい。なのです……」

 柚乃が困ったように柳眉を下に向けた。


 於泉が屋敷を無断で抜け出すのは、これが初めてのことではない。

 幼い頃から、度々供も付けずに屋敷を抜け出しては、大目玉を食らうことが多々あった。しかし、近頃は行き先の1つも告げず、いつの間にか姿を消してしまうらしい。


 今日は客人が来るから、きちんとした身形みなりで待っているように、と恒興が散々言い聞かせていたにも関わらず、だ。


「森様。申し訳ございませんが、姫様をお見掛けになられましたら、すぐにお屋敷に戻られますよう、お伝えいただけませんか。……もう、今日は若殿のお誘いであってもお断りくださいと、散々お願いしていたのに……」


 走り去る柚乃の背を見送ると、長可は汗を手ぬぐいで拭った。

 池田家の庭に目をやると、躑躅つつじが咲き誇っていた。城と桃色が群生する中に、ちらりと赤い羽を持つ蝶が舞うのが見えた気がした。


       *


 柚乃の声が完全に聞こえなくなると、於泉は顔を突き出した。きひひ、と悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべると、気によじ登り、銅張どうばりの壁をよじ登った。

 柚乃と初瀬の目を掻い潜って脱走することなど、お手の物だ。


 不言色いわぬいろの小袖に、薄桜うすざくら馬乗りカルサン袴。


 この恰好なら、於泉を池田家の姫だとは思わないだろう。

 初瀬からは「せめて裳袴もばかまを穿いてください」と言われるが、馬乗り袴の方が動きやすいので、於泉はもっぱらこちらを愛用している。


 唐紅の結布で結い上げた髪を揺らしながら、銅張の上から地面にひらりと舞い降りると、

「おい」

 と、低い声がすぐ近くから落ちて来た。

 うげっ。と顔を顰めながら見上げる。於泉に負けじと顰め面をした長可が立っていた。

「柚乃殿、探してたぞ。今日は客人の饗応きょうおう役を命じられてたんじゃないのかよ」

「知らない」

 於泉は体ごと目を反らした。

「今日は若との方が先に約束したの」

「柚乃殿は『断れ』って言ってたみたいだけどな? つーか、若なら事情を話せば、お前のために融通利かせるくらいのこと、訳ないと思うぞ」

「知らないわよ。機能急に命じられたのよ。宴がやりたければ、勝手にやればいい。父上の娘はわたしだけじゃないんだし。何だったら、父上に叱られずに済むように、若に詫び状でも書いてもらうことにするわ」

「おいおい……」

 仮にも、奇妙丸は織田弾正忠家の若殿である。そんな相手に傍若無人な振る舞いをして許されるのは、於泉くらいのものだ。


 今年で13歳になるというのに、於泉の態度は昔から一貫している。


 風に靡く、すみ色の癖毛に目を奪われる。頭のてっぺんで羽休めする唐紅の蝶が、今日はやけに視界に入り込んで来た。


「大した宴でもないのよ」

 土手に出ると、於泉が急に口を開いた。

荒尾あらおのお爺様がいらっしゃるだけだし」

「荒尾……尾張おわりの?」

 於泉の母・奈弥の故郷である。

「わたしね。生まれた時は今と違って、体が弱くて……だから、ずっと母方の祖父母に育てられたの」

「お前が病弱? 嘘だぁ」

「茶化さないでよ。事実なの。わたしに兄上や弟妹がいることも知らなかったし、何なら母上が生きておられることを知ったのだって、3つになる頃だったかな? 母上は立て続けにわたしと兄上を産んでいたし、産褥から回復するのが遅かったらしいから……嫡男はともかく、わたしのことまで手が回らなかったんだと思う」

 於泉は、奈弥との折り合いがいまいちだ。

 幼い頃、1番母を必要としていた頃に引き離されていたので、互いにどう接したらいいのかわからない。そんな気持ちが母娘おやこに壁を作っているのかもしれない。

「お爺様が、わたしに会わせたい方がいるって」

「会わせたい相手? あれか、先の戦で武功を上げた家臣でも自慢したいのか」

「ううん。わたしを嫁がせる相手と顔を合わせる場を設けたいんですって。要は、今日の宴はお見合いっていうこと。今時ないわー」

「……誰の」

 長可の声が低くなったことに、於泉は気が付いていない。

「わたしに決まってるでしょ! お爺様の家臣の縁戚のご子息。父上はあまり乗り気ではないようだったし、それほど怒られないと思うけど」

 恒興は、於泉のことを殊の外可愛がっている。まだ13歳の娘を手放したくない、という気持ちがあるのかもしれない。

「勝三殿が起こらなくても、庄九郎が怒るんじゃねえの?」

池田家うちの当主は、父上よ。父上がわたしを本気で嫁にやるつもりだったら、見合いだとか、そんなまどろっこしいことはしない。一言、『行け」って命じたらいい」

 その通りではあった。武家に生まれた子供が当主に逆らうなど有り得ない。少なくとも於泉は、恒興がならば、従う気持ちは芽生えている。


 市が見えて来た。於泉は長可の存在などあたかも忘れたかのように駆け出した。


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