梅林止渇【弐】
*
――元亀3年(1572年)、春――
「姫様ー! 於泉様ー!」
隣家の方角から、若い女の声が聞こえる。
長可は溜息を吐きながら、槍を振るのを
「おい」
長可と目が合ったのは、於泉の侍女の柚乃である。
柚乃は廊下から庭に降りると、長可の方に駆け寄って来た。
「森様、騒がしくしてしまい、申し訳ございません。――姫様はそちらにおられますでしょうか?」
「いや、来てないけど。……またか」
「はい。またなのです……」
柚乃が困ったように柳眉を下に向けた。
於泉が屋敷を無断で抜け出すのは、これが初めてのことではない。
幼い頃から、度々供も付けずに屋敷を抜け出しては、大目玉を食らうことが多々あった。しかし、近頃は行き先の1つも告げず、いつの間にか姿を消してしまうらしい。
今日は客人が来るから、きちんとした
「森様。申し訳ございませんが、姫様をお見掛けになられましたら、すぐにお屋敷に戻られますよう、お伝えいただけませんか。……もう、今日は若殿のお誘いであってもお断りくださいと、散々お願いしていたのに……」
走り去る柚乃の背を見送ると、長可は汗を手ぬぐいで拭った。
池田家の庭に目をやると、
*
柚乃の声が完全に聞こえなくなると、於泉は顔を突き出した。きひひ、と悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべると、気によじ登り、
柚乃と初瀬の目を掻い潜って脱走することなど、お手の物だ。
この恰好なら、於泉を池田家の姫だとは思わないだろう。
初瀬からは「せめて
唐紅の結布で結い上げた髪を揺らしながら、銅張の上から地面にひらりと舞い降りると、
「おい」
と、低い声がすぐ近くから落ちて来た。
うげっ。と顔を顰めながら見上げる。於泉に負けじと顰め面をした長可が立っていた。
「柚乃殿、探してたぞ。今日は客人の
「知らない」
於泉は体ごと目を反らした。
「今日は若との方が先に約束したの」
「柚乃殿は『断れ』って言ってたみたいだけどな? つーか、若なら事情を話せば、お前のために融通利かせるくらいのこと、訳ないと思うぞ」
「知らないわよ。機能急に命じられたのよ。宴がやりたければ、勝手にやればいい。父上の娘はわたしだけじゃないんだし。何だったら、父上に叱られずに済むように、若に詫び状でも書いてもらうことにするわ」
「おいおい……」
仮にも、奇妙丸は織田弾正忠家の若殿である。そんな相手に傍若無人な振る舞いをして許されるのは、於泉くらいのものだ。
今年で13歳になるというのに、於泉の態度は昔から一貫している。
風に靡く、
「大した宴でもないのよ」
土手に出ると、於泉が急に口を開いた。
「
「荒尾……
於泉の母・奈弥の故郷である。
「わたしね。生まれた時は今と違って、体が弱くて……だから、ずっと母方の祖父母に育てられたの」
「お前が病弱? 嘘だぁ」
「茶化さないでよ。事実なの。わたしに兄上や弟妹がいることも知らなかったし、何なら母上が生きておられることを知ったのだって、3つになる頃だったかな? 母上は立て続けにわたしと兄上を産んでいたし、産褥から回復するのが遅かったらしいから……嫡男はともかく、わたしのことまで手が回らなかったんだと思う」
於泉は、奈弥との折り合いがいまいちだ。
幼い頃、1番母を必要としていた頃に引き離されていたので、互いにどう接したらいいのかわからない。そんな気持ちが
「お爺様が、わたしに会わせたい方がいるって」
「会わせたい相手? あれか、先の戦で武功を上げた家臣でも自慢したいのか」
「ううん。わたしを嫁がせる相手と顔を合わせる場を設けたいんですって。要は、今日の宴はお見合いっていうこと。今時ないわー」
「……誰の」
長可の声が低くなったことに、於泉は気が付いていない。
「わたしに決まってるでしょ! お爺様の家臣の縁戚のご子息。父上はあまり乗り気ではないようだったし、それほど怒られないと思うけど」
恒興は、於泉のことを殊の外可愛がっている。まだ13歳の娘を手放したくない、という気持ちがあるのかもしれない。
「勝三殿が起こらなくても、庄九郎が怒るんじゃねえの?」
「
その通りではあった。武家に生まれた子供が当主に逆らうなど有り得ない。少なくとも於泉は、恒興が命じたならば、従う気持ちは芽生えている。
市が見えて来た。於泉は長可の存在などあたかも忘れたかのように駆け出した。
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