梅の香【伍】
*
喧嘩両成敗ということで、長可は2人に拳を落とした後、厠の掃除を命じた。
乱丸の顔面は糠袋で擦らせて墨を落とし、万里の衣は、嫁に行った姉のお下がりを与えた。万里の着物に比べればそれほど高価な品ではないが、藤と鞠を描いた薄黄色の小袖は、それなりにお気に召したらしかった。
帰り際、万里は腰に手を当てながら、言い聞かせるように顰め面をした。
「それじゃあね、乱丸様。ちゃんと、今日習ったことは自分でも繰り返しておくのよ。次に会うまでに、もう少し綺麗な字が書けるように、毎晩練習して……」
「うるさいなぁ。子ども扱いするなよ」
「子どもでしょー。実際、わたしより年下なんだから」
「年下って言ったって、1つだけだろう。というか、ほとんど同じようなものじゃないか」
年が明けてすぐに生まれた乱丸に対し、万里は年が明ける少し前に生まれたと聞いていた。
「でも、わたしの方が年上なのに代わりないもん」
万里は面白くなさそうに顔を反らした。
「寝る前に手習いを……」
「無理だって。油がもったいないし」
「じゃあ、朝起きてすぐ。あ、毎日わたしに文をくれたっていいのよ。そしたら、毎日見てあげられるし、お城にこなくても大丈夫だし……」
「……そこは、ちゃんと見に来てよ」
その後、しばらく2人は言い争いをしているようだった。拳骨でまた強制的に終わらせようかと思い、拳に息を吐きかけたところで、その前に乱丸が言い負かされて終結していた。
「お前ら、会う度に喧嘩してるな」
長可が溜息を吐くと、乱丸は慌ててそんなことはない、と否定した。
「その、確かに万里は可愛い顔をしているけど気が強くて……俺が1つ文句を言ったら、最低10倍はこちらを煽ってくるような女子だけど……。でも、一緒にいると、新しいことを知れるし……会うのは、厭じゃない。……楽しい」
「ふん。じゃあ、お前はお万里のことが好きなんだな。俺と同じか」
乱丸が、カッ、と頬を染めた。
「あ、兄上は……万里のことを好いているのか?」
「あれ? お前は、嫌いなのか。お万里は頭がいいし、本当に女にしておくのが勿体ない。男だったら、金山の商家の元締めにもなってくれただろう。もし男だったら、小姓にしたいくらいだ」
「あ、そっち……?」
「? 他にどんな意味が?」
乱丸は「なんでもない」とまた頭を振った。変な奴だと呆れながら、長可は万里のことを想った。
歯に衣着せぬ物言いをする万里は、騒がしいけれど、疎ましくはない。万里の両親さえよければ、本気で手元で養育してもいいかと思うほどには。
「お万里を猶子か養女になさるおつもりで……?」
「それでもいいし、兵庫辺りに預けてもいいとは思っているが……」
松野屋は――少なくとも、今は味方である。松野屋は商家の元締めのような役割も果たし、嘉之助は頼りになる男だ。市井の暮らしを知る時は、相談役になってもらうこともある。
だからこそ、敵に回すと厄介だ。そうでなくともなにかの折、万里の母・
敵に回さないよう、早い段階で万里を人質として預かっておきたいとは考えていた。
「猶子でなくても……身内にする方法は、ございますよ」
「ん?」
「その、側室に迎える、とか……。あ、せ、正室でもいいとは思いますが」
「……室、か」
室といえば――幼馴染からは、返事を先延ばしにされたままである。
長可はまだ年若く、青年と呼ぶにも早い。急いで後継を求められるわけではないし、何より弟達は全員同腹である。跡継ぎには事欠かないし、嫁取りを急かされるまでには猶予もある。
しかし、だからこそ早い段階で正室は望んでおきたかった。
(於泉は、俺のことをどう思っているんだろうな)
嫌われてはいないし、感心を持たれていないわけでもない。少なくとも以前、輿入れ騒動が起こる前には、於泉は「嫁いでやる」と言ったこともある程度には、親しい。そして奇妙丸も「お前にならやってもいい」と太鼓判を押してくれた。
正直な話、勝蔵は「嫁に来てほしい」と打ち明けた時、即座に頷いてもらえると思っていた。自惚れていたのである。しかし、帰ってきたのは涙だけだった。池田家から、正式に返事が来たこともない。
話を進めていいのか、恒興に確認を取っていいのか。あるいは引き下がった方がいいのか、判断ができない。そして未だに、はぐらかされている。
(やっぱり於泉が、本当は織田の姫、だからかな)
公然の秘密、である於泉の出自。少なくとも、恒興は知っているし、奇妙丸も察していることだった。きっと、於泉自身も。
織田家ゆかりの姫を賜るには、森家ではまだ働きが足りないということだろうか。しかし、蒲生家の嫡男に、信長は自身の娘を与えている。少なくとも於泉は対外的には池田家の姫君なのだし、池田家となら家格が釣り合わないこともない。
(早く、出陣してぇな)
この間は、表に出ない初陣だった。結局褒美に貰えたのは茶器で、嫁取りの話ではなかった。茶器を賜ったことは飛び上がるほど嬉しかったし気に入っているが、1番欲しかったものではなかったので、少し空しくもある。
織田の姫を望むには、圧倒的に手柄が足りない。早く早くと、じれったくなった。
「……兄上、何故黙る?」
乱丸が青ざめたように、袖を引いて来た。さっきから赤くなったり青くなったり、せわしない弟である。
「兄上、やっぱり……」
「あ? なんだよ。てか、何の話してたっけか」
「な、なんでもない! それより、この間御屋形様からいただいたという茶器、見せてくれ!」
「なんだ、お前も茶器に興味があるのか。じゃあ、元服の祝いにゃ松野屋に頼んで、いっとういい茶器をやろう」
「……兄上、そう言って自分のものにしそうだから厭だなぁ」
弟を屋敷に押し出しながら、長可は空を見上げた。
すこし前まで、今の刻限になれば、日はすっかり沈んでしまっていた。今はもう少し明るい。太陽を押しのけ月が浮かぶには、もう少し時間が掛かりそうだった。
(……気長に待つか。まだ、怪我も完治してねぇみたいだし)
自分を納得させながら、長可は振り返って早くと急かす乱丸を追い駆け、草履を脱いだ。
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