忍ぶれど……【参】
*
半月ほど前のことだった。
奇妙丸の部屋で庄九郎が職務補佐をし、長可が乱入していた時だった。
奇妙丸の同母弟・
茶筅丸は3年前に
庄九郎は長可を引き連れて席を外そうとしたが、奇妙丸が「構わない」と止めた。
「どうせ茶筅のことじゃ。大した用向きなどない。それに、先に来ていたのはそなたらであろう。勝手に来たのが茶筅の方だ」
奇妙丸の吐き捨てるような言い方には、厳しさが孕んであった。
長可や庄九郎に見せるような、気兼ねがないから、という所以のものではない。於泉に見せるような人当たりのいい柔和さも当然ない。
(若にとって、弟君・妹姫達というのは、気を許す相手ではないのかもしれない)
奇妙丸にとって茶筅丸達は、父親が生ませた子という共通点があるだけの相手なのかもしれなかった。
庄九郎も長可も、頼りにするか否かはともかく、兄弟仲はいい方である(全員同母というのも大きな理由かもしれないが)。だからこそ、喧嘩にすらならない――というのは、どこか寂しさを抱かずにはいられなかった。
ところで、茶筅丸という奇妙丸の弟というのは、絵に描いたような大うつけである。
信長とて、若い頃はうつけとして名を馳せていたが、茶筅丸は計算などしていない。正真正銘、天性の大うつけであった。北畠家を何事もなく安定させられているのは、茶筅丸の功績というよりは、その下にいる家臣達の努力の賜物である。
……にも関わらず、自身が早くも北畠の家督を継いだという自負が、この童にはあるらしい。自信も必要ではある。しかし、喉元過ぎればなんとやら。最近では織田家の家督を継ぐのは己だと言い放って憚らなくなっているのが頭痛の種であった。
『兄上には、よき屋敷を建てて差し上げますから! そこでのんびりと過ごされてはいかがですか!?』
あの言葉を聞いた時、長可が立ち上がろうとしたので、庄九郎はうっかりお茶を零した。長可に着替えを言い訳に外へ呼び出したので、お陰で消化不良らしい。いまだ怒りは解けず、お陰で通りすがった侍女や小姓達に理由もなくがおうと吠えてしまう始末だ。
「あのバカに継がせてみろ。織田家は半日で滅びるってんだよ」
「声がでかい。そういうことは、お城の中で言うんじゃない。茶筅丸様のお考えになることだから、仕方ない」
「それで済ませられるか!! 叩っ斬ってやりてぇ!!」
「きゃっ」
長可が地割れしそうな怒号を放ったのとほぼ同時に、枝が爆ぜた。
やや低めの女の声が響く。長可が振り返ると、庭に若い女が立ち尽くしていた。夜空に浮かぶ月光のような髪と瞳をした、背の高い女だった。
「おふみ殿」
庄九郎が目を開いた。
それなりに付き合いは長くある。しかし、庄九郎の蘇芳の双眸がこんな風に輝いているのを見るのは、初めてのことかもしれなかった。
「も、申し訳ございません。立ち聞きなどするつもりはなかったのですが……」
重たげな前髪の隙間から、ふみと呼ばれた侍女が庄九郎の顔を覗き見た。
(美人だな)
長可は素直にそう思いながら、庄九郎とふみのやり取りを見つめた。
背が高い。庄九郎を超えているくらいだから、女としてはかなり大柄だ。男の中に混じっても違和感がないだろう。
艶のある珍しい明るさを帯びた黒髪と瞳に、雪のような白い肌がよく映える。
(それにしても……この女、いつからここにいた? 全く気配を感じなかったな……)
見覚えのある違和感を抱きつつ、2人のやり取りを見つめる。庄九郎が何かを受け取っていた。
「では、確かに」
「はい。若殿様によろしくお伝えくださいませ」
そう言い置いて、侍女は背を向けた。
腰の辺りで靡く髪は、太陽の光を全て飲み込み、反射させていた。
庄九郎は微動だにせず、ふみの背で揺れる毛先を見つめていた。
「奥方様の侍女の、おふみ殿だ。奥方様の姪御でもあるらしい」
尋ねてもいないのに、庄九郎が教えてくれた。
「奥方様の?」
「そう。奥方様の亡くなった妹君の姫君らしい」
「奥方様の姪御なら……何で侍女なんかしてるんだ?」
帰蝶は、信長の正室である。実の姪とあらば、ふみには叱るべき身分を与えられてもおかしくない。
「本人の意志らしい。奥方様はご自分の養女に迎えたいと考えておられたようだが」
「詳しいな」
「若と関わる可能性がある者のことは、事前に調べて頭に入れておくのが近侍の役目だ」
「へえ。近時ってのも大変なんだなぁ」
「他人事だと思って……」
庄九郎が舌打ちをした。しかし、長可にとってその点においては、完全なる他人事で間違いない。
父・可成の死後、13歳で家督を継いだ長可は、父の居城であった金山城を受け継いだ。本来なら小姓として仕えていたのだろうが、途中経過諸々をすっ飛ばして五万石の大名になっている。
しかし、粗暴な長可にとって、小姓になるなど真っ平御免だった。
短気で損気を被っている、と庄九郎の妹からは笑われる始末だし、先日も同輩達と諍いを起こして奇妙丸に鉄拳をお見舞いされたばかりである(「お前が近侍でなくてよかった」と言われたので「それほどでも」と頭を掻いたら二発目を食らった)。
庄九郎が着ているような小姓の装束は長可には似合わないし、主君の寵愛争いに加担しなければいけないのも億劫だ。小姓にならなくてよかったと、長可はつくづく思うのであった。
一方――庄九郎は、卒がない。
所作も職務も、非の打ちどころがないとはまさにこのことを言うのだろう。剣の腕前だって、古参の家老達が唸るほどだ。
長可が通る道全てで問題を起こしても平然と城内を歩いていられるのは、奇妙丸の臣下だからというだけではない。庄九郎が何気ない風を装いながら、軋轢が緩和するよう働きかけてくれているからだ。
長可が於泉を泣かせて、奇妙丸に叱られて、庄九郎がそれとなく仲裁する。
子供の頃からの光景だった。
(俺達は、もう子供じゃない)
長可も庄九郎も元服した。奇妙丸もそう遠くないうちに元服し、名を改めることになるだろう。織田弾正忠家の当主となるために。
(でももうしばらくこのままでいられたらいいのに……)
そんな風に願わずにはいられない。描くことが許されないはずの夢物語を望むのは、きっと長可自身が気付いているからだ。
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