忍ぶれど……【弐六】
*
主君が困っている気配がする。半分は面白がっているのだろうか、唇が微妙に弧を描いている。
一方長可は、居住まいだけは正したまま、けれど表情は膨れ面のまま動かさない。
「……いつまでやる気じゃ」
先に白旗を掲げたのは奇妙丸だった。教則に肘を突き、掌に頬を預ける。大人びた表情が幾分か幼げになった。
長可はそれでもむすっとしたまま、態度を和らげることはない。
「勝蔵」
奇妙丸が優しく言った。
「もうそろそろ、謝るから仲直りしよう」
「お断りします」
「何が気に食わぬ。あれか、この間お前が俺の小姓と喧嘩をしたのを止めたからか」
「それも少しはありますけど、今回は別件です」
長可は、手首を見た。手首には、朱色と黄色の糸を組み合わせた組紐が括られている。
この間、於泉に形ばかりの詫びを入れた時に貰った。
『若に教えるついでよ。お守りだと思って、いつも身に付けてなさい。ただでさえ勝蔵殿は、人から嫌われやすいんだから』
そう言いながら長可の手首に紐を結ぶ於泉の顔は、熱を出したのか、赤かった。しかし、そんなことはどうだって良かった。
問題は、若に教えた理由の方である。
「……何で、教えてくれなかったんですか」
「だから、何のことじゃ」
「於泉に、全部吐かせました。……若は」
長可は声を潜める。
「甲斐に、探りを入れておられると」
「…………」
「それも、御屋形様に命ぜられたからじゃない。若がお決めになられたことだ、と」
奇妙丸は長可を手招きした。大声では話してはいけないことだった。
「於泉め、口が軽いか。女子だものな」
顔が触れ合うほど、距離は近い。
「取っ組み合いあして吐かせました」
「ああ、それでお前の顔は腫れておるのか」
長可はまた不機嫌になった。
言え。言わない。吐け。吐かない。殺すぞ。やってみろ。
そんな応酬を繰り返しているうちに、2人して縁側から転げ落ちた。元々短気な者同士である。侍女達の制止如きでは止まらず、帰って来た庄九郎が止めに入ってくれなければ、血だらけになったことだろう。
2人掛かりで問い詰めた末、渋々吐かせたのだった。
「お前、於泉に負けたのか」
「違います。俺の勝ちです。於泉に吐かせたので」
「お前、それで良いのか」
「はい、いいんです」
どのような方法でも、何なら多少情けないことさえも些細なことだった。
この場合、情報を吐かせた長可の勝ちである。顔が腫れようと鼻血を流そうと。
「……何で、言ってくれなかったんですか」
「言えぬわ」
奇妙丸は吐き捨てるように言った。
「俺が甲斐に使者を送っておると知ったら、止めただろう」
「言われなきゃ、止めるかどうかも決められませんし」
「だから言えん。お前に理解してもらえなんだら、俺は、誰に理解されぬよりも寂しくなる……」
奇妙丸は懐から守り袋を取り出した。
布の上で、青々とした歪な松の葉が生い茂っている。袋の口を開くと、奇妙丸は小さく折り畳んだ紙を取り出した。
「いつも、書く中身は同じじゃ」
奇妙丸の目は寂しそうで、穏やかだった。
この優しい目が向けられるのは、甲斐の姫君に対してだけだ。
「この守り袋はな。俺と姫が、まだ公に文や贈り物ができた頃……武田との同盟が敗れる、少し前に貰ったものじゃ。中には、最後にやり取りした文を入れておる。未練がましくな……」
何が起きても、
また会う日まで、奇妙丸の正室の座は、空けておくと約束した。
幼い頃、信長に連れられて、甲斐に出向いたことがある。高遠の館で挨拶を交わした時が、許嫁とのただ一度の邂逅だった。
後のことは、誰もが知っての通り。文や贈り物を交わすだけの、まるで
始まりは、織田家のためで、政のためだった。しかし、今は違う。
屋敷の中から、届くか分からない文を何度も何度も書き続けた。
きっと、傅役達に何度捨てられたか分からない、信長から踏み付けられたことさえある贈り物を、何度も贈り直した。
いつかもう一度、同じ桜を見るために。
奇妙丸が願ったのは、それだけだった。
「……父君に逆らいたいから、ですか」
奇妙丸の肩が揺れた。
「それもある」
厳かに響いた声は、それでもどこまでも穏やかだった。
「だが――
「……なんで、於泉にしか明かしてくれなかったんですか」
庄九郎も知らなかった。知っていたのは、於泉を始めとする、本当に僅かな者にのみ。
まるで、於泉のことだけ信用しているのかと腹が立った。
「言うたであろう。そなたらに否定されたら、寂しいと」
「於泉なら否定しないと?」
「うん。於泉は、家臣ではないからな。於泉は、儂の妹で、理解もある。だが、お前達は、理解しているからと、無条件に背中を押してくれる存在か?」
確かに、そう言われたら否定できない。
主君の気持ちを理解したい。それはまことだ。しかし、理解したい気持ちを優先して、何でも頷くこともしてはならない。主君が道を違えたら、ただひたすら頷くことを長可は忠義とは思わない。
「……でも、俺達だって面白くはないです。一言くらい、って思っちゃいます」
「嫉妬か」
「はい。……若は、俺達のこと信じてないのかと思って」
「そういうわけではないが――まあ、お前達を騙せていたなら、噂というのも大したものじゃな」
ますます腹を立てると、奇妙丸は微妙な顔をした。
「……於泉――否、女子を傍に置いておけば、目隠しになると思うたのじゃ」
正室に関しては、嫡男ともなると慎重に選ばれる。しかし、側室や妾ならば別だ。家臣や商人の娘や身内など、どこから湧いて来るのか感心するほど見目は美しい娘達を紹介される。
「寵愛の女子がいると見せたら、少し減った。於泉はちょうど良かった」
「それってあんまりじゃありませんか。於泉はどう言っているんですか」
「何が問題か」
きっと目の前にいたのが庄九郎だったら、縁側に放り投げていただろう。それをしない理性を誰かに褒めてほしい。
「於泉は、於泉の気持ちはどうなるんですか。於泉は、若のことを――」
「儂に惚れるかということか? なら、問題ない」
奇妙丸はあっけらかんと言った。
「於泉は、儂が妹でもあると言うたであろう。あれは、儂に惚れることなどない。儂が於泉に惚れることも。そんなもの、種のうちに枯れたわ」
枯れた、ということは、種が植えてあったことは認めるということなのだろうか。
「安心せい。儂が自らの意志で室に迎えるわただ一人、松姫だけじゃ。そして、於泉を迎えることはない。……まあ最も、儂が迎えたいと言うても、父上も認めぬであろうしな」
恒興は信長の乳兄弟。そして、庄九郎達の母はかつて信長の室だった。池田家は織田家の身内も同然である。身内同士で縁を深める必要は今のところない。
「少なくとも儂が松姫にと思うて作っていた組紐があるが――その時於泉も見本に作っていたが、それは隣の幼馴染の鉄面頬要らずにくれてやると言うていたぞ」
長可が手首に結んだ組紐を袖の下に隠すと、奇妙丸は「見せつけおって」と笑った。
「儂にとって於泉は身内の女子じゃ。――だからこそ、お前にくれてやりたい、と儂は勝手に思うておる。松姫以外で、儂が大事だと初めて思うた女子を、お前にやるつもりである」
奇妙丸の目が光った。珊瑚にも似た色の、炎を映した瞳。
風が御簾を揺らし、奇妙丸と長可の頬を撫でた。
「お前なら大丈夫だと知っている――だが、あえて言う。お前だけは儂から離れるでないぞ、勝蔵」
「はい」
長可ははっきりと宣言した。
たとえ追放を命じられても、別の者の与力になれと命じられても、長可は美濃から離れない。いつ何時でも、奇妙丸に呼ばれれば馳せ参じることができるような場所にいるつもりだ。
「俺の主は、ただ一人――あなただけです、若。あなたに万が一があったら、俺は地獄の果て、修羅のその先までお供致します」
「たわけ」
奇妙丸が愉快そうに笑った。
「お前なぞ、言わずともどうせ地獄行きじゃ。――儂も同じよ。地獄の果てまで、付き合うてもらうぞ」
夕暮れの中、顔を見合わせ笑いあう。
紅葉に燃え盛る季節の中で、迫り来る冬の匂いがした。
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