【番外編】忍び恋うる【上】
*
「おい!!」
じたばたと暴れる幼馴染を肩に担ぎながら、通りがかった小姓に声を掛ける。
長可の姿を見ると、小姓は怯えたように――というよりも、実際に怯えているのである――身を竦めた。そもそも長可がしたのは呼び掛けではない。ただの恫喝である。
「衣、持って来い」
「持って来い、じゃないでしょ!」
肩の上の於泉が吠えた。
「持って来てください、でしょうが!」
「うるせぇ、いいんだよ」
長可が野犬のような威嚇をすると、於泉は長可の総髪を遠慮なく引っ張った。
「ごめんなさい。男物と女物、それぞれ持って来てあげてください」
長可の肩に担がれたまま、器用に於泉は、上体だけ振り向いた。
傍に控える侍女の柚乃が不安そうにしているが、落とすようなヘマはしない。長可はさりげなく、腕に力を込めた。
「西の局に女物、東の局に男物だ。間違えんなよ。丈は同じくらいでいい」
「もー! もっと丁寧に
「うっせぇ、払い落とすぞ、
口喧嘩をしながら歩く長可と、担がれたまま猫のように威嚇を続ける於泉。
逃げるように小姓が駆けて行くのを感じながら、柚乃は長可の背に声を掛けた。
「あの、森様」
「あん?」
「
「知らね。どっちかにいるって言ってた気がするけどな」
大雑把な物言いに頼らざるを得なかったのは、於泉に気を取られて、柚乃は長可と庄九郎の会話を聞いていなかったからだ。
柚乃は自身の失態を食いながら、於泉が落とされないように気を揉んでいた。
*
手ぬぐいで、濡れた髪を拭いながら、袴を落とす。
庄九郎は、ひりひりと痛む頬に顰め面をしながら、元結の結び目を解いた。黒絹糸のようだと讃えられる美しい髪が、肩を撫ぜて背中に落ちた。
(勝蔵の野郎)
皮膚が未だに熱を孕んだままなのは、長可が於泉に持たせている
長可が劇物を持たせていなければ、於泉は取り返しがつかない目に遭っていたかもしれない。しかし、庄九郎は忘れない。
長可は蔵に入る時、自分が粉を直接浴びることがないよう、庄九郎とふみを突き飛ばして直撃するのを2人の体で阻んだのである。2人の体で防いだ上で、長可は三七達を叩きのめしたのだった。とんでもない輩である。
地獄に落ちたその後も追い掛け回して殺してやると、殺意を込めながら、庄九郎は手桶の水で顔を濯いだ。
「あの、失礼致します」
小姓の声が御簾の向こうから聞こえた。
「お着替えをお持ちしました」
「そうか……ありがとう」
「も、森様から命ぜられまして……失礼致します!」
小姓が駆けて行くのを感じる。それでも足音を立てない辺り、しっかりと教育されている。
長可も、流石に悪いと思っていたのかもしれない。通りがかった知り合いに持って来てもらおうと思っていたのだが、先回りして手配してくれたのだから。
しかし、この時庄九郎は疲労も相まって、忘れていた。
庄九郎は顔も声も、女人のようであること。普段は意識して低めの声を出しているのに、今は失念していたこと。
そして一番重要な、長可に反省という言葉は存在しないということが、頭から抜け落ちていた。
衣を広げた庄九郎は、ぴきりと音を立てた固まった。
*
ひとまず渡された衣を着、膝を抱えて蹲る。最早生乾きのまま、髪は括ることさえ忘れていた。
小姓が持って来てくれた衣には、袴が付いていなかった。その上、女物の――侍女の装束だったのである。
御簾が揺れた。几帳の裏に隠れると、庄九郎は息を殺す。
「池田様……」
聞こえて来たのは、ふみの声だった。
庄九郎は几帳の裏から覗き見るように、御簾を窺う。定子の様子を伺い見る少納言の気持ちが分かった気がした。
「失礼」
ふみは御簾を跳ね除けた。
ふみは、
どうやら小姓は、庄九郎とふみの着物をとりかえばやにしてしまったらしい。
庄九郎は安堵したように几帳の方から滑り出た。
「良かった、おふみ……」
庄九郎が見上げると、ふみは「わあ……」と口に両手を当てた。微妙に頬が赤いのは、日光を背にしているからだと思いたい。
「池田様、お似合いです……」
「ありがとう嬉しくない」
庄九郎は目が据わらせたが、ふみからすれば、年下の
髪が濡れたままなので、解いて後ろに垂らしている。小袖は悲しいくらいに似合う自覚がある。鍛えているが、男としてはどうしても華奢だ。傍から見れば、正直庄九郎は、未だに男よりも女に見えがちだった。
ともあれ、この恰好で人前に出て行くことにならなくて良かった。長可のことは後で三回は殺すとして、庄九郎は帯に手を掛けた。
「おふみ、衣を交換しよう。それで解決だ」
「どうしてですか」
「当たり前だろ。俺だって、お役目でもないのにこんな恰好」
「でも……」ふみは何の気なしにだろうが、裾を見下ろした。「でも、袴も袖も、池田様には長過ぎるかと」
「おい」気にしていることを言われ、庄九郎は半分腹が立ち、もう半分は切なくなった。最近では、於泉にも背丈が抜かされそうなので焦っていた(恒興からは「諦めろ」と言われるが、諦めるわけにはいかない)。
「そうだわ」
ふみは手を叩いた。
「私、このまま池田様のお屋敷に行って参ります」
「は!?」
何言ってるんだ⁉ と思ったが、ふみはどうやら本気らしかった。
「大丈夫。私、これでも変装は得意なんです! ばれない自信はあります!」
「得意とかそういう問題じゃないだろ!!」
庄九郎の言葉などまるきり聞くこともなく、ふみは姿を消した。
流石は、忍びの者。それも、戦闘訓練を積んでいる身軽さだった。ああなるまで、ふみはどんな苦労を重ねて来たのだろう――最早、まったく関係ないことに思いを馳せなければいけないほど、庄九郎は現実から目を反らしていた。
取り敢えず、長可のことは六回殺そう。決意を新たにする。
几帳の後ろに隠れようとすると、御簾がまた揺れた。
ふみが戻って来たのだろうか。それとも。
「――誰かいるのか」
聞こえて来た声に、庄九郎は全力で顔を顰めた。
*
あまり使われない部屋の前を通りがかると、物音がした。
てっきり、侍女でも誰かいるのだろうかと思った茶筅丸は、御簾を払った。
「――誰かいるのか」
几帳の後ろで、衣擦れに交じり、吐息が鳴り響く。
茶筅丸は無遠慮に几帳の裏を覗き込んだ。
そこにいたのは、若い娘だった。
黒絹糸の髪を結ぶことなく、背中に流している。髪が濡れているのは、髪を洗っていたのだろうか。
「す、すまん」
如何に阿呆と呼ばれている茶筅丸と
「い、いえ……」
裏返ったような震えた声。口元を覆い隠したまま、侍女はちらりと茶筅丸を振り返った。
――稲妻が走り抜けたような感覚が、茶筅丸の全身に走った。
「お待たせ致しました!」
そこに駆け込んで来たのは、帰蝶の侍女である。帰蝶の侍女はやや慌てたように頭を下げた。
「ちゃ、茶筅丸様がおわすとは気付かず……ご無礼をお許しくださいませ」
「い、いや、いい……」
茶筅丸はよろけたように、帰蝶の侍女の横を通り抜けた。だが、どうしても堪えることができずに振り返った。
「のう、そなた」
黒絹糸の髪の侍女は、びくりと肩を揺らした。
「そなた、名はなんと申す?」
「え、と……」
黒絹糸の髪の侍女は迷った末に、「もと」と呟いた。
「もとか。よき名じゃ。ではな」
茶筅丸は、胸を押さえながら足音荒々しくその場を後にした。
*
「来るのが遅いッ」
半ば八つ当たりのように、庄九郎はふみを怒鳴りつけた。
「しかも、自分ばっかり!」
ふみの出で立ちは、先程の袴姿ではない。いつも見慣れた侍女の小袖姿である。
「すみません。自分の局に寄って、着替えてから参りました」
「俺がどんな思いで……!」
「はいはい、すみませんすみません」
慣れたようにいなしながら、ふみは庄九郎に衣を渡す。
庄九郎はふみの手から衣を引っ手繰ると、再び几帳の裏に隠れると、ふんっ、と怒りながら帯を解いた。
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