乱離拡散【壱】
*
長い廊下を歩いていると、反対方向から見知った姿が見えた。
庄九郎が駆け寄ると、2番目の妹・
庄九郎は、水が張られた桶を受け取り、なるべく優しい声を心掛けた。
「
「
そうかと頷き、通り過ぎようとすると、鮎が袖を掴んで来た。桶の中で跳ねた水が床に数的散らばり、姿を変えた。
「姉様、大丈夫だよね……?」
縋るように見つめられても、咄嗟に返事ができない。庄九郎は鮎の頭を撫でることが精いっぱいだった。
――こればかりは、祈ることしかできないのだから。
◇◆◇
丸めた紙は、無造作に括った髪にも、擦り切れた小袖に当たることもなかった。振り返ってもいないのに、傷だらけの掌が易々と掴んだのである。
「何ですか」
顔さえ振り返ることなく、
「気が散る。用がないのなら、失せよ。屋敷に戻って、槍の稽古にでも励むが良い」
「……槍、ここで振り回したら駄目ですか」
「気が散る」
奇妙丸は、憎まれ口を繰り返した。しかし、長可が本当に出て行かないことを知っているから、言えるのである。本当は誰かに傍にいてほしかったし、それなら長可以外は厭だった。
何より、長可が城下に与えた森邸に居たくないという気持ちは、痛いほど分かった。稽古をしていても上の空で、隣家のことばかり気にしてしまうのだろう。
奇妙丸とて、1人になったら思考が雁字搦めになるだけであるのが目に見えていた。
◇◆◇
半月ほど前――於泉が輿入れした翌日の、早朝だった。
長可が枕に頭を預け、微睡んでいた時、隣の屋敷から聞こえる騒々しさが耳に障った。
聞き覚えがある若い、女の声。何より、庄九郎の声により、意識が完全に覚醒した。兄弟喧嘩をしているにしては、何やら物々しい感じがした。
しかし、親しく付き合っていたとしても、所詮は他家のこと。必要以上に踏み入っていいものでもない。
開いた瞼をそっと伏せる。少女の泣き声を耳にしたが、昼間の疲れもあり、あっさりと眠りの世界に誘われた。
――長可が隣家の騒ぎについて知らされたのは、その日の昼過ぎであった。
いつものように奇妙丸の屋敷に出向き、戸を開いた瞬間――長可の顔の真横に脇息が飛んで来た。
脇息は柱に当たり、床の上に落ちる。
上座に立ち尽くす奇妙丸――傍らに伏せているのは、庄九郎だった。
「えっと……?」
思わず目を泳がせながら、庄九郎の後頭部と、奇妙丸の顔を交互に眺める。
しょっちゅう奇妙丸の堪忍袋の緒を鉈で切り落とす長可と違い、庄九郎が若き主君の機嫌を損ねることなど、これまではなかった。しかし、長可は奇妙丸を怒らせるほどの心当たりは、ここしばらくは、ない(たぶん)。今、庄九郎しか部屋の中にいないということは、庄九郎が奇妙丸の機嫌を損ねたということである。
奇妙丸は長可に気が付くと、庄九郎の真横を通り抜けよう
奇妙丸は庄九郎の真横を通り抜けようとした。
「お待ちを」
庄九郎の声が部屋に響いた。
「於泉のことは、何かあり次第、某の方からご報告を上げさせていただきます。故に、若はお屋敷にてお待ちくださいませ」
「何故じゃ!」
奇妙丸の切れ長な瞳が、険を孕んだ。
(於泉の様子……なんのことだ……?)
長可の中で、厭な音が鳴り響く。数年前――憔悴した母の口から、二の句を告げられた時のように。
「なれどこれは、当家の問題にございます。若は、お待ちください」
「池田家だけの問題ではない! 於泉は、我が父の養女。儂の妹でもある!!」
「たかだか女子1人のために政から目を反らされるのですか? そのようなこと、言語道断にございます」
庄九郎の言葉で、奇妙丸はようやく押し黙った。
長可は恐る恐る部屋の中に入った。
「あの……一体、何が……?」
長可は庄九郎の横顔を伺った。月夜の下で輝かんばかりの横顔は俯き、震えていた。
庄九郎が言い淀んでいると、奇妙丸が拳を振り上げ、床板を勢い良く殴りつけた。
「輿入れが、中止になった」
「――へ?」
輿入れ、とはこの場合、於泉の輿入れのことで、間違いない。
「てことは、あれですか。於泉は美濃にいるんですか?」
「ああ。いることは、いる」
奇妙丸の眉間の皺が深くなった。
「そもそも、儂らが輿入れと思うておったのは、謀り事であったらしい。父上は、15年前の続きを果たされただけじゃ」
15年前――
――ただ、1人を覗いて。
信勝の若衆に、
無論、信勝が清洲に呼び出された際にも、同行している。
しかし、他の者が成敗された時、いつのまにか津々木は姿を消していた。
清州の廊下と庭には、血の足跡が浮かび上がっていたものの、いつのまにか途絶え、以来行方知れずとなっていた。出血量からして、生きていないだろうと誰もが想ってはいたのだが――、
もし、軽傷であれば。
もし、津々木が今も生きていたら。
信勝を殺害した信長を恨み、再び襲撃して来たとしても、おかしくはない。
実際に、織田の姫の輿入れという
とはいえ津々木の姿はそこにはなく、男なら織田の兵が駆け付けた時には、血に濡れた花嫁行列と、死体から衣や、荷を剥ぎ取ろうとした野盗のみであったという。
「於泉は……」
長可の声が震えた。
「生きては、いる」
生きては、ということは、予断を許さないということだ。
目の前が暗くなる。
想いを終わらせたのは、於泉の未来が途絶えるからではない。それぞれが与えられた役目を全うするのに、互いの想いが邪魔だったからだ。
(もし、於泉がこのまま、死んでしまったら……)
流石に、この場で口にすることはできない。しかし、その先に待ち受ける可能性を想像しただけで、吐き気を催した。
◇◆◇
掌に結び付けた組紐と、握り締めた韓紅の布を見つめる。
組紐は毎日身に着けているせいで少し擦り切れて細くなり、唐紅の布は、血を吸ってどす黒くなっていた。
「……若」
腹の底から、ふつふつと煮えたぎるような思いに気付く。
「もしも花嫁行列を邪魔した不届きな輩の素性が分かったら、お教え願えますか」
「知って、如何するつもりか」
「さあ、如何すればいいのやら――。でも、取りあえずぶっ殺してぇ、って気持ちは確かです」
長可自身、自分の気持ちのやり場が分からない。終わらせたはずの想いは形を変え、宙に浮いたままになってしまった。
奇妙丸の気配が、硬い。長可は布を握り締め、無意識に詰めを立てた。
於泉は、将軍追放後の足掛かりとして、京に行くはずだった。しかし、奇妙丸の身代わりになった於泉が捨て駒であった以上、奇妙丸に待ち受ける命運を――想像しただけで、辺りを血の海に変えたくなる。
(俺が於泉を手離したのは、15年前の続きを致すためじゃねえ。若を、守るためだ。若を虐げる奴ぁ、俺が1匹残らずぶっ殺してやる……)
沸き上がるどす黒いを隠すように、長可は血に濡れた結布を懐に仕舞い込んだ。
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