梅林止渇【六】


      *


 厠で用を足し、手を洗ってから、庭に降りる。花を見つめながらボーっと先ほどのことを考えていた。

 奇妙丸が元服するという事実に、於泉は思いのほか衝撃を受けていた。


(若だって……いつまでも「」ではいられないのよね)


 奇妙丸は、今は16歳。来年の元服では遅いくらいだ。

 長可も庄九郎もその前に元服の儀を済ませ、於泉だって顔の横で物忌みを結ぶことなく、鬢を揺らすようになった。


 いつまでも城に上がっていられることはできない。ただでさえ、初瀬や奈弥は於泉が城に上がることにいい顔をしない。奇妙丸が元服する頃には、於泉はどこぞに嫁に出されるのだろうか。


 庭には、躑躅つつじの花が揺れている。於泉は茂みに近付くと、溜息を漏らした。


 ずっと、時間が止まってくれればいい、と思っていた。しかし、生きていれば時は進む。否応なしに。

 その時がもうすぐ来ようとしている。ただそれだけのことだ。


『俺達が武芸の鍛錬をするのと、お前が稽古するのとじゃ、重さが違う』


 以前、長可からそういう意味のことを言われた。


 分かっている。女と男では、一打の重みにどうしても差が生じてしまうことくらい。

 弓の威力も、剣の打撃も、男のそれには敵わない。剣の打ち合いをしても負けないのは、無意識に彼らが手加減してくれているからだ。

 唯一誇れる身軽さだって、単に体の重さが男より軽いからというだけで、あと2、3年もすれば、於泉はそれすら負けてしまうだろう。


 池の中で、鯉が跳ねる。於泉は橋の上に行くと、そっと水面を見下ろした。


 昔、鞠を貰ったことがあった。刺繍が鮮やかで、綺麗な鞠だった。


 気に入って、いつも持ち歩いていた。勿論、奇妙丸の元に来る時も。

 1人で鞠を突いて遊んでいたら、誤って手を滑らして池に落としてしまい――そのままになった。


 ずっと、子供でいたかった。いつまでもぬるま湯に浸かって、男も女もなく庭を駆け回って、鞠を手放すことがなかったら、何も悩まずにいられたのだろうか。


 ぼんやりした頭で、池の水を覗いていたから、人の気配に気が付かなかった。


「あの……」


 最初、自分が声を掛けられているとは思わなかった。


「あの、そこの娘御。唐紅の結布の」


 そこまで呼び掛けられて、於泉はようやく自分が呼ばれていることに気が付いた。

 於泉が顔を上げると、若い青年が立っていた。年の頃は、於泉よりいくつか年上であろうか。

 蘇芳色の双眸と、墨を溶かしたような波打つ髪を総髪に結い上げた青年だった。


「……あの……?」


 じろじろと顔を見られ、戸惑った。不愉快ではないが、何だか不思議な気持ちになったのは、目の色や髪の色が同じだからだろうか。


「おい、新八郎!」


 続いて聞こえた声に、於泉は全身の毛を逆立てた猫のようになった。


 青年の後ろから現れたのが、奇妙丸の異母弟おとうとの三七だったからだ。


 三七とは以前、奇妙丸を巡ってちょっとしたいざこざがあった。

 長可に貰った南蛮胡椒とうがらしを混ぜた粉末で撃退して撃退したが、今でも若干の嫌悪というか拒否感がある。


 三七の方も、於泉の言いたいことが分かったのだろう。罰の悪そうな顔をしていた。


「……その説はすまなかった」


 三七が髪を掻きむしった。意外と素直な態度に於泉は目を瞬いた。


「兄上に叱られて、反省した。……俺が水面下で必死に立てた策略を、兄上は涼しい顔でお見通しだった。茶筅の阿呆に全ての罪をなすり付けて、あわよくば無能の烙印を押された兄上同様葬り去ろうと思うていたが」

「ちょっと待って。今、すごい野望が聞こえたんだけど」

「気のせいだ。今は、その気はない」


 今は、ということは、少し前までの三七にはその気があったということである。

 於泉はますます三七のことが苦手になった。


 とはいえ、謝罪を受けたことで十あった嫌悪感は、八くらいには軽減された。


「そういえば、三七殿。若から聞きました。若と茶筅丸殿とご一緒に、来年元服されるそうですね」

「ああ。3人まとめてとは、父上らしい合理的なやり方だよな」

「きっとここにいらっしゃるのが茶筅丸殿なら、『この3人の中から織田の当主を選ぶんだ』とか言い出すんでしょうね」

「違いない」

 ははっ、と乾いた笑みを零してから、三七は目を細めた。

「でも、俺と茶筅はないだろうな」

 奇妙丸とほかの弟達とでは、信長の息子達への扱いとでは、格差がある。

 養子に出された次男以下と、手元で正室・帰蝶の養子にと明言された奇妙丸。


 奇妙丸は何かと信長にとっては手駒だ、と苦笑しながら言うが、序列は明らかに上だ。……もっとも奇妙丸が卑屈になってしまうのも、奇妙丸が背負った傷を思えば仕方がないことでもある。

 信長自身に息子を傷つけた意識などなく、周りを駒として利用していることに罪悪感などない。

 およそ、武士など皆そういうものなのだろうが、信長のそれはこの時世でも異質に映るほど、むごい時がある。


「ところで新八郎。於泉に何か用でもあったのか?」

「於泉――新八郎が口を開いた。「この方は、於泉、と言うのですか」

「何だ、知らなかったのか」

 新八郎とも、以前顔を合わせたことがある。

 三七とのいさかいの時、同行していた家臣は新八郎だ。そして、その前にも。

「……昔、池で鞠を落とさなんだか?」

「やっぱり……そうだったんですね」

 於泉は手を叩いた。


 池で落とした鮮やかな鞠。


 鞠を探して、本来入ってはならない場所に紛れ込んだ於泉のことを庇ってくれたのは新八郎だった。


「池田勝三郎殿の娘御の、於泉じゃ。於泉、これは儂の近習で、新八郎と言う」

「今は、織田信兼のぶかねと名乗っております。とはいえ三七様といい御屋形様といい、皆幼名のままで呼びますので、於泉殿もどうかそのまま」


「新八郎殿――」於泉は軽く会釈すると、新八郎も会釈を返して来た。そして、もう一言。


「於泉殿、ところで、今日は奇妙丸様のところに?」

「ええ。お忍びで呼ばれたんです」

 と、いうことにしておかなければならない。

「そうか。なら、少し離れた方が良いかもしれない」


 え、と首を傾げると、新八郎が声を潜めた。


「先程、奇妙丸様の屋敷に、父君と兄君が」


 於泉はひっ、と息を呑んだ。ばれないように逃げたのに、あっさりと知られてしまっている。


「失礼しますっ」


 於泉は頭を大きく下げると、慌てたようにその場を後にした。


      *



「……忙しない奴だな」

 三七が肩を竦めながら、於泉が逃げて行った方角を眺めた。

「昔からですか?」

「ああ。昔から、兄上以外の言うことを利かん娘じゃ」

 今話しただけで、於泉の人柄というのがよく分かる。そして、三七の口添えも拍車を掛けたので、新八郎は微笑んだ。


「三七様ッ」


 続けて、池田恒興。いつも娘に甘いと有名だが、今日は肩を怒らせている。

 どうやらあのじゃじゃ馬娘は、余程のことをしでかしたらしい。恒興は鬼のような形相をしていた。


「三七様、恐れながら我が娘を見ませなんだか」


 見ては、いる。しかし、以前於泉の髪を切ろうとした負い目が三七にはある。どちらの肩を持つべきか思案していると、新八郎が前へ出た。


 恒興の目が一瞬、驚いたように開かれた。


「池田様のご息女の於泉殿でしたら、先程、お屋敷の方に行かれましたよ。外出などしていないふりをされているかもしれませんね」


「さ、左様でござるか。では」


 恒興は軽く目礼すると、屋敷の方に向かって駆けて行く。姿が見えなくなると、三七は新八郎を見上げた。


「……お前、よくもまあ息をするように嘘が吐けるな?」

「嘘を吐いてはいない」

 於泉が駆けて行ったのが池田家の屋敷がある方角なのは事実だった。

「しかし、於泉殿は、池田殿のご息女だったのですね」

 新八郎は、蘇芳の双眸を懐かしそうに細められる。

「何だ、気に入ったか?」

「いえ、そんなんじゃ……」

「気持ちは分かるがな」

 於泉の母である奈弥は、佳人とも謳われた女人である。

 尾張国にある荒尾領主・荒尾作右衛門善次あらおさくえもんよしつぐの娘である。

 荒尾家の先祖を辿ると、稀代の美男子・在原業平ありわらのなりひらがおり、奈弥はその血を色濃く継いでいるのかもしれない。


「……荒尾殿の――」

 新八郎は一瞬眉間を顰め、それから微笑んだ。人好きのする笑い方だ。三七は首を傾げながら歩き出す。


「だが、ならぬぞ、あれは。兄上が手放さん」

「ああ……奇妙丸様と親しいのでしたね」

「うん。きっと兄上は、於泉のことを側女にするつもりだろうからな」

「そんなつもりはありません。……ですが、どこに行こうと、よき縁を持っていただきたいものです」


 以前、三七を諫めることをせず、怖い思いをさせてしまった。再会した時、疎まれなかったことにホッとした。


(そうか、あれが――)


 新八郎は先を歩く三七に付いて、橋の上を後にした。






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